「上杉謙信は女性だった説。」女性であるとする根拠とは?

今回は、日本人の好きな戦国武将ランキングで常に上位, しかも、戦(いくさ)では、ほぼすべて全勝だったと言われる上杉謙信をとりあげてみたいと思います。

神がかったカリスマ的な謙信に対して、誠実なイメージを持たれる方も多いと思いますが、以外にも謙信は「実は女性だった。」という説があります。

今回は、「謙信がどんな人であったのか?」「本当に女性だったのか?」を中心に考えてみたいと思います。

上杉謙信はどんな性格だったのか?:

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謙信の幼少時代:

越後守護代, 長尾為景(ながおためかげ)の四男として生まれた謙信は、7歳の時(1536年)に春日山のふもとにある林泉寺に預けられます。

14歳の時(1543年)に 兄であり、長尾家の後を継いだ長尾春景(ながおはるかげ)の配慮で俗世に戻り、栃尾城城主となります。

翌年、15歳の年(1544年)に初陣し、周りから一目置かれる存在になり、その後亡くなるまで、戦い続け、享年49歳(1578年)で亡くなります。

信仰心の強かった謙信:

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謙信は、自らを毘沙門天(びしゃもんてん)の生まれ変わりであると信じていたと伝えられています。

仏教が日本に伝わった時点では、毘沙門天は、四天王の一つで、武神、(戦いの神)として伝えられ、皆さんの中にも天邪鬼(あまのじゃく)を片足で踏みつけ、右手を腰にあて左手にほこを持ち、悪を絶対に許さない毘沙門天の像を見られたことがあるのではないでしょうか?

謙信は、自身の居城である春日山城「毘沙門丸」という別棟を設け、その中に「毘沙門堂」という専用のお堂を作ります。
そして、毎日欠かさず、朝,昼,晩に読経していたと言われています。
出陣する時にも、毘沙門天像を肌身離さず、持ち歩いていました。

旗印にも毘沙門天の「毘」の文字を使い、書簡に署名する際にも、「毘」のデザインを使っていました。

「義」を貫いた謙信:

元々、越後の守護代の家に生まれた謙信。
終生に渡り、侵略目的や自らの利益のために戦をするようなことはありませんでした。

1552年 関東管領の上杉憲政が北条氏康に攻められて、越後へ逃亡してくると
謙信は上杉憲政を助け擁護します。

1555年から1564年まで5回にわたって繰り広げられる信玄との川中島の戦いも、元々は信玄に攻められた村上義清や高梨氏の救援要請に応えて、越後を守るための戦いでした。

1560年には、椎名康胤(しいなやすたね)が謙信に助けを求め、謙信は出陣し富山城を落としましす。

1567年には、武田家と今川家の対立が深まり、武田家が経済封鎖を受けると、謙信が信玄に塩を送ったことはあまりにも有名ですよね。

謙信の行動は、いつも越後を守る正義の味方だったのだと思います。

 

上杉謙信女性説:

「謙信女性説」誰が言い出した説なのか?:

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「謙信女性説」は昔からあった話かもしれませんが、大衆に発表されたのは、歴史小説家である八切 止夫(やぎり とめお)さん(1914年12月22日 - 1987年4月28日)によるのが最初だと伝えられています。 ちょうど、昭和40年代の話です。
その後、多くの人が謙信女性説を展開するようになっていきます。

謙信を女性であるとする根拠は?:

スパイン国王フェリペ2世への書簡:

スペインから派遣されたゴンザレスのフェリペ2世宛ての報告書の中, 黄金情報というところに次の文言がでてくるのです。

“会津の上杉は、TIAの開発した佐渡の純金をたくさん所有している。”

TIAは、スペイン語で、伯母の意味。
時代から特定して、佐渡の純金を所有していたのは、謙信だと考えられます。
ゴンザレスは謙信が女性であることを知っていたのではないかというのが八切さんの推理です。

謙信の死因は女性特有のもの?:

1620年代~1640年代に姫路藩主 松平忠明が発行編集したとされる史書「当代記」の中には、謙信の死因は、「大虫」であったと記載されています。

「大虫」は、月経の隠語として用いられている場合や月経そのものを言う場合もあることから謙信が女性であった根拠のひとつとされています。

ごぜ(盲人の芸能者)たちの歌:

謙信が出陣するときには、決まって歌う民謡(ごぜ唄)があり、その中の詩の一部に「男もおよばぬ大力無双」という節がでてくるというのです。

確かに、史実にも謙信の腕力が秀でていたことは記載されています。

信長からの贈り物:

謙信の力を恐れていたひとりが織田信長でした。
信長は謙信との争いを避けるような交渉もたびたび行っていたようです。
その信長が謙信に対して、南蛮製のマントを贈ったり、洛中洛外図屏風を贈ったことが記録にありますが、贈答品のひとつに源氏物語屏風もあったそうです。

今の時代の感覚から言うと、男性が男性に源氏物語屏風を贈るだろうかと疑問の声も多いことでしょう。

確かに、謙信は恋愛ドラマである源氏物語も読んでいたとは伝えられています。

腹痛に悩んでいた謙信:

謙信は毎月10日前後に腹痛になり、出陣を中止したこともあるようです。
これは生理が原因ではないかと言われています。

 

謙信女性説に反論:

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1)元々、謙信は越後守護代・長尾為景(ながおためかげ)の四男として生まれており、仮に女性に生まれてきたとしても、男性になりすます必要はなかったのではないでしょうか?

2)ゴンザレスが、フェリペ2世に宛てた書簡のTIA(伯母)にも疑問が残ります。
確かにスペイン語で、伯母はTIAですが、叔父はTIO。
単なる“A”と”O“の誤記だった可能性もあります。

3)「当代記」の中の「大虫」は、本当に月経という意味だったのでしょうか?
時代から考えて、毎月腹痛を起こした原因も寄生虫だったと考えることもできるのではないでしょうか?

あるいは、謙信の見た目が中性的だったので、外部の人(ここでは松平忠明)は、謙信のあだ名として「大虫」と呼んでいたのではないでしょうか?

4)謙信くらいの人になれば、恋愛物語である源氏物語に限らず、いろんな書物を読んでいたのではないでしょうか?
人間、難しい本も読めば、時には軽いものも読みたくなる時もあるものです。

信長が源氏物語屏風を贈ったという話ですが、当時は「かぶき者」文化が流行った時代でもあります。
「かぶき者」とは、” 異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者た
実際には、信長や前田利家や前田慶次郎も「かぶき者」趣味の人だったと言われています。
大武将が朱色の服やビロードが好きでも、なにもおかしくなかった時代だったのではないでしょうか?

筆者の見解:

この記事の「謙信女性説に反論」でも記載しましたが、謙信は四男として生まれています。
「跡継ぎの心配」という観点から言うと、何の心配もない家系であり、敢えて生まれてきた女の子を男の子として育てる必要はなかったと考えています。

謙信を7歳から仏門に入れている点から考えても、男子として生まれてきたからこそであり、他の兄弟と争わないようにしたいという親の配慮が伺えます。

将軍家である足利家でも基本跡継ぎは長男であり、そのために弟たちを仏門に入れることを習慣化していた時代でした。

ただ、多くの資料でも記載されている通り、謙信は、中性的な身体と美しい顔立ちを持っていたため、民謡(ごぜ唄)の中では、謙信に親しみを込めて、「女」として歌にしたのではないでしょうか?

斎藤道三も「マムシ」と呼ばれていましたが実際には人間なわけで、呼び名は、その人の身体的特徴や性格をとらえて表現するもので、現代でもよくあることだと思います。

武田信玄が亡くなる時、危機に面したら謙信に頼れと言い残した通り、謙信と信玄の間には男通しだからこと通じ合える絆があったのではないでしょうか?