織田信長とは?超スッキリ!織田信長の生涯や功績とその後の現在まとめ

時代によって求められるリーダー像が違うということを知っていますか?

高度経済成長期には徳川家康豊臣秀吉が求められていました。

現在ではどうなのか?

強いリーダーシップを求めて、織田信長・上杉謙信・武田信玄などがクローズアップされています。

中でも織田信長は取り上げられることが多く、小説・ドラマ・アニメにも取り上げられているという状況です。

しかし強いリーダーが現れると、歴史は反作用を起こして排除しようとします。織田信長も歴史の反作用から逃れられなかった1人です。

今回は織田信長の生涯・功績・その後をご紹介します。

織田信長とは

織田信長とは

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織田信長は尾張国(現在の愛知県)に生まれています。父は織田信秀、母は土田御前です。

父の織田信秀は、尾張下4群を実力によって得た人物であり下克上の典型とも言えます。

なぜ信秀がここまで支配領域を広げられたのか?

そもそも信秀は正式な支配権を持っていません。

簡単に当時の支配権についてお話していきます。

当時天皇家は権威の象徴となっており、これは現在と変わりない状況です。

室町幕府も存在していますが、こちらも権威となっており実質的な力はありません。

その下には国別に守護が任命されていました。

例えば、○○国守護のように、領地として支配していましたが国元にいることはなく京にいることが多かったので実質的には守護代を任命しています。

尾張国の守護は斯波氏でしたが、実質的な支配者は守護代の織田氏です。では織田信長を生み出した織田家は守護代の家なのか?

家系でいえば、信長の生まれた織田家は織田弾正忠家と言われる家で、尾張下4群を支配する織田大和守家の傍流でした。

 

信秀がこの傍流の家からどのように下4群を支配できるまでになったのか?

この答えは信長からすると祖父の信定が握っています。

当時、軍事力とは領地の大きさによって決まっていました。農民が戦時に兵士として戦う、半農半士が主流です。

この状況は戦国時代末期まであり、なぜ専業にできないかと言えばお金がないからです。

一般家庭を例に出すと分かりやすいですが、今夫婦共働きが増えています。

なぜ増えているのかと言えば、共働きでなければ生活していけないためです。経済力があれば奥さんは働かなくてもいいわけで、選択ができます。

考え方は今お話ししたことと同じで、戦国武将も武士を常時雇っておくほどの経済力がないから半農半士でしか兵を使うことができなかったのです。

信定は津島という港町を傘下にします。津島は海運により商業が発展していた街で、ここを支配したからこそ経済的な基盤が生まれたのです。

信秀は信定から領地を継承し、さらに広げて尾張下4群を手にすることになります。経済力は歴史を紐解く一つのヒントです。

織田信長はいつ活躍した人物なのか?

織田信長が活躍した時代は戦国時代と呼ばれている時代から、安土桃山時代にかけてです。

西暦にすると諸説ありますが、応仁の乱が始まった1467年(応仁元年)が妥当なところでしょう。

 

そもそもなぜ戦国時代になってしまったのか?

ここには現在でも変わらない法則があります。

日本は現在分裂などもなく国内だけに限れば平穏そのものです。しかし政府が立て続けに政策を失敗したとすればどうでしょう?

頼りにならない政府、自分たちで何とかしなければならないと考えます。この中央が機能しなくなり地方が自立していったのが戦国時代です。

この時代、実質武士をまとめる機構として存在したのが室町幕府でしたが、6代将軍足利義教が嘉吉の変で赤松満祐に暗殺されてからはたかが外れます。

織田信長が生まれた時代は戦国時代の真っただ中だったのです。

信長は1534年(天文3年)に生まれていますので、戦国時代の幕開けから半世紀経った頃になります。

織田信長は何をしたことで有名なのか?

織田信長は何をしたのか?実際天下統一するのは豊臣秀吉ですが、信長が道筋を付けなければ達成できなかったはずです。

地名を変えた

信長の功績として初めに取り上げるのは、地名を変えたことです。

現在でも使われている岐阜県の岐阜は、信長が沢彦宗恩へ地名の選定を依頼して決定したものです。

岐阜とは、中国の周王朝の文王が岐山で挙兵し天下を取ったとことから付けられます。

これ以前には見られなかったことで、信長以後見られるようになるのです。ちなみに岐阜は城の名前で、以前は稲葉山城と呼ばれていました。

国名も美濃国で斎藤道三が有名です。

兵農分離

次に上記でも触れていますが、兵農分離を成し遂げたことでしょう。

これは経済力がなければ成しえなかったことであり、成し遂げたからこそ天下人となれたのです。

ここで天下人とはどのような人なのかお話しします。

天下人とは天下統一した人というイメージがありますが、大きな勘違いです。

信長は天下統一を果たす前に本能寺の変で討たれています。なのになぜ天下人なのか?

そもそも天下人とは、京の都にて政治を行う権力を手にした人物を指すのです。

だからこそ信長は天下人と言われていますし、信長以前にも何人かそう呼ばれた人はいました。

信長と過去の天下人との違いは、経済力です。京に長く留まることができるほどに信長の経済力は大きいものでした。

年号で振り返る織田信長の生涯

年号で振り返る織田信長の生涯

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信長の生涯は49年です。本能寺の変で明智光秀に討たれなければもっと長生きしたでしょう。

信長を年号で振り返り、いかにして天下統一一歩手前まで辿り着いたのか見ていきます。

織田信長はどんな人柄だったのか

どのような人物だったのかということを知りたいなら、その人物の行ったこと・周りの評判を聞くことが大切です。

信長がどのような人物だったのか?この部分を知るために、いくつかの信長の行動を追ってみましょう。

比叡山焼き討ち・長島一向一揆

一般的に信長は冷酷・非情だと言われています。なぜ非情なのかと言えばこの2つの事件が引き合いに出されるのです。

では信長はなぜ比叡山を焼き討ちし、長島一向一揆で農民をジェノサイドしたのか?

 

信長が殺戮者だったから?

 

違います。信長の性格を語るうえで、よく持ち出されますがこれは現在の状況からしか物事を見ていないために言われるのです。

当時宗教は現在にはない力を持っていました。信仰だけなら別に文句はありません。

比叡山延暦寺・本願寺が持っていたものは武力です。比叡山延暦寺は僧兵という兵を抱えています。

本願寺は信仰を盾とした農民兵です。宗教が武力を持つとろくなことがありません。

世界的に見ても、キリスト教が宗教を広めるために世界各地へ武力侵攻しています。

イスラム教に至っては、現在でも原理主義者が武力で物事を推し進めようとしているという事実があるのです。

 

信長以前に比叡山焼き討ちをした人物は、足利義教しかおらずこの2人には共通点が多くあります。

なぜ比叡山を焼き討ちし、長島一向一揆ではジェノサイドしたのかは宗教勢力の武装解除が目的です。

天下統一を目指すうえで、宗教勢力が武力を持っていることは脅威と言えます。武装解除させ、信仰のみをする今の体制になったのは信長の功績です。

決して殺戮が好きだということではなく、信長の天下統一のために仕方がないことだったと言えます。

家臣の奥さんからの相談に答える気配り

独裁者と言われる人は、自分に近侍する人には優しいという一面を持っています。

独裁者の典型として言われるアドルフ・ヒトラーも秘書などからは好かれていました。

 

信長はどうなのか?

 

ある時信長の元へ手紙が届きます。そこには亭主が女遊びが絶えず困っていると書かれていました。

この手紙へ奥さんを労わる言葉を書いて、慰めています。そもそもこうした家庭的な相談を信長に出そうとは考えません。

絶対的な権力者へこのような手紙を出せば、大抵処分されてしまうかもしれません。

ちなみにこの手紙の差出人はおねでした。女遊びの絶えない亭主とは「羽柴秀吉」、のちの豊臣秀吉のことを信長に相談しているのです。

こうした相談を受けること自体、信長の性格の一端を表していると言えます。

織田信長の作品

織田信長は多くの作品に取り上げられています。テレビ・ドラマ・マンガ・ゲーム・アニメなどです。

その中から有名なものをいくつかご紹介していきます。

信長 KING OF ZIPANGU

信長 KING OF ZIPANGU

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宣教師が来日し、キリスト教の布教に努めたのは1500年代から見られています。

そうした宣教師の1人、ルイス・フロイスの視点から見た信長の生涯を描いた大河ドラマです。

信長協奏曲(のぶながコンチェルト)

信長協奏曲(のぶながコンチェルト)

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マンガが原作となっているドラマです。

現代に生きる三郎がタイムスリップして、自分と瓜二つの信長に成り代わり天下統一を目指していきます。

映画版もあり、筆者は映画版で初めて見ましたが面白かったです。

信長の野望

信長の野望

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1983年にマイコンシステム(現コーエーテクモ)から発売されたこちらのゲームは、歴史シュミレーションゲームのパイオニアとなるゲームです。

現在でも続編が発売されており、派生作品も数多くあるシリーズとなっています。

信長となって戦国時代を天下統一しましょう。

織田信長の現在

織田信長の現在

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信長は現在評価されてきていますが、以前はそこまで評価が高いとは言えませんでした。

江戸時代は徳川家康が創出した時代ですから、もちろんのこと明治維新後もそこまで評価はされていません。

評価とはある日突然変わるものです。戦後の昭和期に徳川家康がもてはやされたのも、山岡荘八・司馬遼太郎の小説が火付け役になっています。

現代になってなぜ信長が評価されているのか?それは閉塞感がある現状を打破してほしい、人々の希望が現れているからでしょう。

隣国との軋轢、内政の行き詰まりが強いリーダーを求める方向に流れているのです。

信長を作品に登場させているのも、人々の願望を捉えているからかもしれません。

織田信長が現在に残した功績(伝わっていること)

信長が現在に残している功績にはどのようなものがあるのでしょう?

上記で宗教勢力が武力を持つことを良しとせず、武装解除させたことは現代にも通じる功績です。

この他にはどのようなことが挙げられるのか?

現代的な能力主義で部下を育てる

現代においても、会社では保身に走る傾向が強いです。

部下を育てれば自分にとって代わるのではないか?だからこそ都合の良い人物しか近くに置きたがらないのです。

しかし、これでは組織としての成長がありません。会社にはできる人が2割、残りの8割は凡庸だと相場は決まっています。

それなら能力ある部下を育てれば、成長していけるはずです。信長は部下を実力があれば引き上げました。

代表例は「豊臣秀吉」です。彼は貧農の子として生まれ、諸国を流れて信長に仕えます。

信長以外の人物に仕えていたなら、世に現れることもなかったでしょう。

他にも滝川一益・明智光秀は素性が定かではありません。

しかし最終的に織田家の重臣にまで出世しています。

弊害として、明智光秀に討たれてしまいましたがこの本能寺の変に関しては理由があるとは思います。ここでは触れません。

部下を育てたからこそ信長は天下人となり、天下統一を目指せたのです。現代に先駆けた先見性と言えます。

織田信長の家系

織田信長の家系

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信長が本能寺で討たれたのち、豊臣秀吉による明智光秀との合戦を経て織田家の内部勢力を殲滅・傘下に治めていきました。

子孫はどうなったのでしょう?

本能寺の変で嫡男の信忠は二条城で討ち死しています。

次男の信雄、三男の信孝は健在です。つまり、秀吉には出番がありません。

ではどうやって秀吉は織田家を簒奪したのかと言えば、次男信雄を篭絡し三男信孝は追い込んで自害させます。

信雄は、大変評判が悪い人物で、凡庸な人物だったのでしょう。

信孝は、できる人物だったからこそ消されたのです。秀吉にとって都合が悪い人物は消される運命だったということになります。

しかし子孫は残り、江戸期には藩主として生き残りました。

現代では有名なところでフィギュアスケートの「織田信成」選手などがいます。

他の家系として、織田有楽斎長益の家系が現代まで存続している状況です。

茶道の有楽流の開祖でもあり、現代では17代目の織田宗裕という女性が宗家を継いでいます。

まとめ

織田信長は感覚的に現代人に近かったと考えられます。

地球が丸いと理解していたという面からも、理解能力の高さが伺えます。

興味の尽きない人物だと言えるでしょう。