今回は、中国歴史上初めて全中国を統一した始皇帝について考えてみたいと思います。
万里の長城や兵馬俑を作った人物として記憶されている方も多くいらっしゃると思います。
この記事では、「始皇帝の人生を左右させた3人の人物について」,「なぜ、始皇帝は殺されたのか?」, それに加えて始皇帝の子孫, 現在の家系についてお伝えいたします。
始皇帝の人生の概略:
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B.C. 246年 政が王位を継承する(13歳)
B.C. 235年 呂不韋へ書状を送る。流刑の地・蜀で呂不韋が服毒自殺。(24歳)
B.C. 230年(29歳)~B.C. 221年
6国(韓・魏・趙・燕・楚・斉)を次々に滅ぼす。
B.C. 221年 秦王「政」, 始皇帝に就任する。(38歳)
B.C. 217年 大改革を実施(42歳)
「五行思想」,「中央集権」,「郡県制」,「度量衡」,「統一通貨発行」,「焚書坑儒」を実施
B.C. 212年 宮殿、阿房宮の建設に着手(47歳)
B.C. 210年 死去(49歳)
始皇帝の人生を左右した人物3人:
呂不韋(りょふい):
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元々は商人であった呂不韋は、後に政(後の始皇帝)の父親である子楚の側近になります。
また、子楚は呂不韋の愛人を妻に迎えます。
その愛人は、子楚と結婚した際には、既に妊娠しており、生まれた子供が政。
政の実の父親は、呂不韋であったと言われています。
13歳の少年であった政が実際の政治を行えるわけはなく、秦の政治, 外交などを実際に行っていたのは、呂不韋でした。
10年に及び政をサポートしてきた呂不韋でしたが、政はそんな呂不韋を疎ましく感じるようになり、呂不韋を追放します。
そして、呂不韋は流刑の地で服毒自殺します。政が24歳の時のことでした。
韓非子(かんぴし):
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春秋・戦国時代は、戦乱の時代でもありましたが、どのような国造りをしていくべきかが論じられる思想競争の時代でもありました。
そのような学派や学者のことを「諸子百家(諸子百家)」といい、歴史家の間では、韓非子は諸子百家思想の最後の集大成を行った人物として評価されています。
韓非子は、儒家の「荀子」に学びます。
韓非子は、荀子が説く性悪説をより実践的な方法論へと発展させていきます。
具体的には、「法」の必要性を説いていきました。
基本になる考えは、君主に力量がなくても、法制度を整えることによって、国の秩序を保っていけるというものです。
刑罰の法律を立案することを推奨しました。
政は、韓非子の考え方に深く感銘し、法家思想(ほうかしそう)に傾倒していきます。
政が「韓非子に会えれば死んでもいい。」と言った話も伝えられています。
実際に政は、韓非子を秦に呼び寄せますが、危機に感じた丞相(じょうしょう)の李斯の策略で服毒自殺することになります。
韓非子は亡くなりますが、政は法制度を整え、次々に近隣諸国を統合していくことになります。
徐福(じょふく):
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政は、中国の統一を果たし始皇帝と名乗り、手にした権力と国力で超大型の土木工事を実施していきます。
その中には、自身の死後の墓である始皇帝陵も含まれていました。
年を重ねるに従い、始皇帝は、自身の死をおそれるようになっていきます。
そんなときに始皇帝の前に現れたのが、徐福でした。
徐福は自身を特殊な能力を会得した錬金術師であり、不老不死の薬を遠く海の向こうに住む仙人からもらってくることができると申し入れしました。
また、不老不死の薬を探してくるように始皇帝が徐福に命じたという説もあります。
いずれにしても、徐福は始皇帝の命により、財宝を得て不老不死の薬を求めて仲間たちと船で旅立ちます。
その行く先は日本であったという言い伝えは、中国国内に限らず日本にもあります。
徐福が最初に上陸した地は、九州であり、佐賀県には、徐福が植樹したと言われるビャクシンの木が今も残っています。
樹齢を調べた研究者によれば、樹齢と徐福の来日と時期が一致しており、日本での不老不死薬の捜索の話には、いくつかの証拠が今も残っています。
徐福は一度目の捜索では薬を探し出せず、二度目の捜索の旅にでますが、始皇帝のもとへ戻ることはありませんでした。
始皇帝は暗殺された(殺された)のか?:
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始皇帝は本当に殺されたのか?:
潤沢な資金と軍事力, 統率力を持った始皇帝は、6つの国を建て続けに滅ぼしていきます。
当然、それぞれの国には、始皇帝に恨みを持っている人々は少なくありませんでした。
数々の中国映画やドラマで始皇帝暗殺をテーマにした物語が作られ、実際に暗殺計画を阻止したり、始皇帝自身が刺客を倒した記録もあります。
しかし、現在、語られているのは、始皇帝は暗殺されて死に至ったのではないという説です。
始皇帝の死因ただのは寿命?:
元々、頭が良く行動力に優れ、すべてを手にした始皇帝でしたが、老いや死の恐怖には太刀打ちできませんでした。
聡明な若かった時期とは異なり、生への執着が極めて強かったためか、時代の雰囲気の影響なのか、始皇帝自身は、「仙人の存在」や「不老不死の薬」や「錬金術」を本気で信じていたようです。
すべてを達成してきた自分であれば、何事も成し遂げられるという自信があったのかもしれません。
徐福が不老不死の薬を持ち帰るのを待っていただけではありませんでした。
紀元前211年になると、始皇帝(48歳)は広大な秦の領土の視察に回るようになります。
目的のひとつは、不死の薬を求めてのことです。
始皇帝は、5回目の視察で、不死の効果があると言われるようになった水銀を成分とする薬を服用し旅の途中で亡くなった。
と言われています。
現在の始皇帝の子孫は?:
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秦の滅亡:
始皇帝には、何人かの子供がいました。
歴史書には、扶蘇, 胡亥, 子嬰などの男子の名前が残っています。
始皇帝の改革,や政策が早急すぎたためか, 秦に征服された国々の反発は激しく、始皇帝の死後、4年で秦は滅びます。
項羽と劉邦の登場:
秦を攻めるために最初に咸陽に入場したのは、後に漢(前漢)を開く劉邦でした。
劉邦は、始皇帝の息子の子嬰を許しますが、後に咸陽に入ってきたのが、秦への憎しみが強かった項羽。
項羽は、始皇帝の一族郎党を惨殺したと言われています。
現在の始皇帝の子孫:
始皇帝に縁のある者はすべて惨殺された可能性が高いと考えられていますが、もし、始皇帝になった政の実の父親が、本当に呂不韋(りょふい)であった場合、呂不韋の子孫は現在でも続いています。
呂不韋の子孫の一人が、劉邦の妻となる呂雉(りょち)であり、唐代の武則天(則天武后)、清代の西太后と並び「中国三大悪女」のひとりと言われる人物です。
筆者の見解:
始皇帝になった政は、知力, 体力, 統率力のすべてに優れていた人物だったのだと思います。
統一後に、残虐になり、独裁者となっていくというのはどの国にでもあるお決まりのお話で、人間はそうなる生き物なのかもしれないですね。
ただ、始皇帝の時代に成し遂げられたことも多く、やはり能力の高さは際立っていたのではないでしょうか?
韓非子の採用に奔走したり、不老不死の薬を探し続けるあたりに、始皇帝が元来持つエネルギーの強さを感じると共に、熱中するタイプの人だったのではないかと思います。
「不老不死の薬があることを信じるなんて、始皇帝はバカじゃないの?」
と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、この時代には、妖術や錬金術や仙人の存在が普通に信じられていた時代だったのだと思います。