武田信玄は名言どおり有言実行したのか?本当の死因と現在の武田家は?

戦国時代で誰が一番強かったのか?

歴史ファンであれば、こんな話題をしたことがあるのではないでしょうか?

織田信長, 上杉謙信などいろいろと候補がでてくると思いますが、忘れてはいけないのが、戦国最強の騎馬軍団を率いた武田信玄です。

信玄の生涯の戦歴は、72戦中, 49勝20分3敗。
ほとんど、負けない武将であったことも事実ですが、20回の引き分けというのも印象的な数字ですよね。

孫子の兵法にも馴染みのあった信玄は数々の名言を残していますが、その中でも信玄らしい名言をご紹介させていただくと共に、信玄が自ら言った言葉と行動が一致しているのかどうかを検証したいと思います。

また、信玄の死因と現在の武田家についてもお伝えいたします。

※アイキャッチは「Japaaan」より引用しました。

武田信玄の有名な言葉とは?:

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“戦いは四十歳以前は勝つように、四十歳からは負けないようにすることだ。ただし二十歳前後は、自分より小身の敵に対して、負けなければよい。勝ちすぎてはならない。将来を第一に考えて、気長に対処することが肝要である。”

この言葉、特定の出来事があった時に信玄が発した言葉なのかどうかはわかっていません。
ひょっとすると、普段から口にしていた言葉かもしれません。

武田信玄の20代と40代の足跡

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信玄の年表

1522年 甲斐の国守護・武田信虎の嫡男として誕生

・信玄20代(1542年~1551年):
1542年 信濃国の国人領主・諏訪氏を滅ぼす(20歳)
1545年 信濃の高遠城、福与城を落とす。(23歳)
1546年 信濃・佐久に侵攻、小勢力を次々に討ち破り佐久を手中におさめる。(24歳)
1548年 北信濃の大名・村上義清を攻めるも敗北する。(26歳)
1551年 村上義清の最後の砦である葛尾城を攻め勝利。(29歳)

・信玄40代(1562年~1571年):
1564年 第五回・川中島の戦い この戦もハッキリとした決着がつかず。
結果的に武田信玄と上杉謙信の最後の戦となった。(42歳)

1568年
三河の徳川家康と組んで今川領を侵攻。
駿河を攻め、城を次々と落としていく。翌年、今川氏は滅亡する。(46歳)

1570年
織田信長を倒すべく将軍・足利義昭が浅井氏、朝倉氏、本願寺、一向一揆衆と手を結び信長包囲網を形成。信玄もこれに同調。(48歳)

信玄は名言の通り動いたのか?:

1)「戦いは四十歳以前は勝つように!」:

確かに、信玄は40歳以前は勝ち続けています。
強敵, 村上義清には、一旦は敗北しますが、最終的には、村上軍の最後の砦である葛尾城を落として勝利しているのです。

2)「二十歳前後は、自分より小身の敵に対して、負けなければよい。」:

信濃・佐久に侵攻し手中におさめています。相手方は武田軍に比べると小見の相手。

3)「四十歳からは負けないようにすることだ」:

一度も敗北したことがないと言われているライバル上杉謙信と初めて「川中島の戦い」で戦ったのは1553年(信玄31歳)の時です。
第2回の川中島は、1555年(信玄33歳)。第3回は、1557年(信玄35歳), 第4回は、1561年(信玄39歳)で、最後となる第5回目の「川中島の戦い」は1564年(信玄42歳)の時になり、30代, 40代に信玄は、確かに負けないように闘っていますね。

当然、信玄は負けない努力を積極的にしています。
四方を他の戦国大名に取り囲まれている信玄は、1554年(信玄32歳)に今川氏と北条家と共に三国同盟を結んでいます
背後の北条家と今川家から攻められる恐れを排除し、上杉謙信に負けないように外交にも抜かりなく準備しています。

信玄の名言にはなかった50代の信玄:

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名言で、信玄が50代を語らなかった理由:

信玄が50代を語らなかったのは、当時の平均寿命が現在よりもはるかに短く「人生50年」と考えられていた時代であったためであると考えられています。

加えて、信玄は若いころから「肺結核」を患っており、体が強靭な方ではなかったと伝えられています。
しかし、1572年50歳の時に上洛を目指したのです。

最大の謎, 信玄はなぜ上洛を目指したのか?:

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歴史の本で記載されている理由:

信長の支援により、足利第15代の将軍に就任した義昭であったものの、やがて信長との対立が深まり、義昭は「信長包囲網」と呼ばれる「打倒信長」の命を有力戦国大名たちに呼びかけました。

浅井, 朝倉, 石山本願寺などがその例です。
信玄も義昭の要請に応じて出陣することになりました。

信玄の心の内はどうだったのでしょうか?:

「甲斐を守るために尽力してきた信玄は、本当に衰弱した将軍家を再興するために出陣したのでしょうか?」

次のような動機もあったのでは?
  1. 正室(三条の方)も京都の公家出身から迎えた信玄、以前から甲斐の田舎から出て京を目指してみたかったのではないか?
  2. 信長は今川家を破り、義昭を将軍に就任させた人物。信玄は、勢力拡大を達成している信長と戦ってみたかったのではないでしょうか?
  3. 持病の問題がありながらも、このまま人生を終えるのではなく、最後のチャレンジとして上洛をターゲットにしたのではないか?

 

信玄が亡くなった原因は?:

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信玄が亡くなった場所とその時の武田軍状況:

武田信玄 1573年4月12日 信濃国下伊那郡で危篤状態に陥り死去(享年 53歳)

1572年10月に甲斐を出発し、12月には信長連合軍である徳川家康を三方ヶ原で撃破
西方から信長軍を討つ予定であった朝倉義景が動かず、停戦。

翌1573年2月武田軍は再度、三河へ侵攻, 野田城を攻め落とします。
ここでも信玄は朝倉義景を促しますが、義景は出陣せず、武田軍は進軍を停止。
甲斐へ戻る決心をした信玄,帰国途上の下伊那郡で死去。

信玄の死因:

信玄の死因についてもいくつかの説があります。

1)病気説:
・肺結核
・胃がん
・肝臓がん

2)暗殺説:
・鉄砲で狙撃されて重傷を負って後に死去
(黒沢明の「影武者」ではこの説で描かれています。)
・暗殺説

3)寄生虫
日本住血吸虫症(にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう)
(一種の風土病で、甲府では発症例が多く確認されています。)

 

現在の武田家:

出典元(信玄の子孫):こちら

信玄・勝頼の直系は?:

1573年に信玄が亡くなった後、後を継いだ勝頼は、1575年の「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍に壊滅的な敗北を喫し、武田家は落城が続くことになります。

長篠での敗北を経験した勝頼は、その後いくつもの改革を試みますが、天目山の戦いで追っ手に追われ、嫡男の信勝と正室の北条夫人とともに自害することになります。

これを以て、信玄・勝頼の直系で男系の武田氏は滅びてしまいました。

信玄の子孫は?:

しかしながら、信玄には、多くの息子, 娘がおり、現在でも信玄の血を受け継ぎ、それぞれの分野で活躍されています。
確認されているのは、信玄の次男である海野信親(うんの のぶちか)の系統。
七男(六男であったという説もある)である武田信清の系統。
そして信玄の五男, 仁科盛信(にしな もりのぶ)の系統です。

信玄には、5人の娘がいましたが、現在まで家系が続いているか否かは、はっきりとトレースできません。ある時点で信玄の血が途絶えている家系もあるようです。

勝頼にも娘がいて昭和の時代までの家系図が確認できる家もありますが、その後が確認できていません。

 

著者の見解:

信玄が当主となった武田家が最初から最強の騎馬軍団を持っていたわけではなく、徐々に信玄が強くしていったのだと思います。

強国に囲まれ、極めてすぐれた上杉謙信というライバルを持った信玄にとって、「四十歳以前は勝つように、四十歳からは負けないようにすることだ。」という言葉は武田家が生き残るために必要な教訓であり、正に信玄はこの言葉を体現してきたのだと思います。

信玄の死因については、いくつもの説がありますが、病死だったのではないかと考えています。
上洛する前から病状は良くなかったのかもしれませんし、再び甲斐に帰ってくることができないことを知りながらの出撃だったのかもしれません。

50歳を迎えた信玄は、「負けないようにする」だけでなく、武士として戦って死ぬことを望み、選んだのかもしれませんね。