現代はグローバル化された社会であり、世界を行きかう人々が時の流れを加速させています。
日本は開国して、明治から令和まで幾多の変化を遂げてきました。
前半は富国強兵、戦争、敗戦であり、後半は復興、経済発展、バブル崩壊が代表的なものです。
幕末に一人の男が、グローバルな社会を夢見て夢半ばで命を落としています。その人物は坂本龍馬です。
彼が何を成そうとしていたのか?坂本龍馬に迫っていきます。
坂本龍馬とは
出典元:こちら
坂本龍馬は現在の高知県で生まれています。昔は土佐藩があり、山内氏が藩主として君臨していました。
ちなみに龍馬は通称であり、諱は直柔(なおなり)です。父は坂本八平、母は幸の元に誕生しています。
全盛期の姿からは想像できませんが、幼少期は気が弱く現代なら確実にいじめの対象になるような性格だったようです。
龍馬が生まれた坂本家は郷士層に属しています。
郷士とは何か?
山内氏が土佐に領地を得て入国した際、在地には旧長宗我部家臣が多く存在していました。
ここで山内氏はこの旧臣を郷士として家臣の中でも下に置いたのです。
ちなみに上士は山内氏に従ってきた家臣であり、この制度が幕末まで続いています。この状況で軋轢が生まれない方がおかしいでしょう。
同じ武士の身分でありながら、徹底的に差別される状況ですから藩に尽くすことは考えません。
幕末に下士層から尊王攘夷に身を投じる人が多かったのも、ここに原因があります。
話を戻しますが、龍馬が幕末に藩を脱藩して活躍していく理由も同じでしょう。
藩に留まっていても、いいことがない。周りは尊王攘夷に盛り上がっているとなれば、自分もと考えます。
上記で気弱な性格だったと書きましたが、裏を返せば聡明な性格をしているとも言えるのです。
後年の活躍を見れば、聡明さがなければあそこまで活躍できません。
坂本龍馬はいつ活躍した人物なのか?
坂本龍馬はご周知のように、幕末に活躍した人物です。
幕末とはどのような時代だったのか?いつの時代にも転換期が必ず訪れます。
出典元:こちら
幕末もその転換期であり、江戸幕府が制度疲弊をもたらしていました。江戸幕府は徳川家康が開府し、260年が経過しています。
当然のように時代は刻々と変化しており、同じ制度が永続的に成立している状況はあり得ません。
水戸藩が尊王攘夷論を藩是として、それが全国に広がり尊王攘夷は大きな時代のうねりとなりました。
爆発的にした事態がペリー来航です。アメリカは覇権国家であり、隣国の中国もアメリカを含む列国に制圧されています。
出典元:こちら
日本も例外なく、ペリー来航より前にも他国の干渉を受けていましたが日本特有の後回しにする性質が事態を悪化させました。
なんの準備もせず、事なかれ主義で来たためペリー来航は混乱を招きます。
幕府はアメリカに屈して、日米和親条約・日米修好通商条約を受け入れることになるのです。
弱腰だとみた武士は志士として全国を駆け巡り、尊王攘夷論が盛り上がっていくことになります。
坂本龍馬は何をしたことで有名なのか?
坂本龍馬は上記で述べたような幕末の時代を生きて、どのようなことをしたのか?
特筆すべき事柄が3つあります。1つ1つ見ていきましょう
薩長同盟
出典元:こちら
1つ目は薩長同盟の成立に大きく関与したことです。当時の状況を考えた場合、この同盟が成立することを誰も予想できなかったでしょう。
薩摩藩・長州藩は双方深い恨みを残した状態でした。どういうことなのか?
まずは藩としての具体的な目的が違います。薩摩藩は公武合体を目指し、長州藩は攘夷論を掲げて幕府を倒そうとしていたのです。
両藩ともに雄藩として京都で勢力を持っていましたが、一時期まではそこまで大きな対立はありませんでした。
深い対立の原因として禁門の変が挙げられます。薩摩藩は会津藩と協力し、長州藩を京都から追い出したのです。
政変劇の後の戦で朝敵とされた長州藩は、薩摩藩への恨みを強く残します。
長州藩はその後幕府連合軍との戦い、外国との戦いを経て攘夷論の限界を感じていました
また、薩摩藩でも公武合体論が暗礁に乗り上げてきたことによって討幕へと藩論が傾きつつあったのです。
両藩の藩論はは似通ってきており、協力できれば討幕へと大きく踏み切れますが過去のいきさつからそれが許されませんでした。
ここに坂本龍馬が噛んでいくのです。
次にお話しする海援隊とも関わりがありますが、過去のいきさつより利害関係に注目した部分が大きいように思います。
具体的には長州藩は武器が欲しい、薩摩藩は米が欲しいという現実的なものです。この部分を上手く斡旋したからこそ薩長同盟は成立します。
海援隊
出典元:こちら
なぜ龍馬が武器や食料を斡旋できたのかといえば、薩摩・長州両藩は以前から和睦を模索していたためです。
協力すれば討幕も可能であり、いきさつを考えたら難しいものでしたが現実的な視点で交渉は行われていました。
ここに龍馬が登場してきます。龍馬は両藩を行き来して、薩摩藩が出資して作られた亀山社中が両藩への輸送をするのはどうかと提案したのです。
亀山社中はのちに海援隊と名称を変えます。両藩との懸け橋になったことから、薩長同盟へと進んでいけたのです。
海援隊は近代的な組織を目指して設立されており、商社的な性格を有していました。
この裏にはある人物の存在が見え隠れしますが、この人物と龍馬との関係は後程詳しくお話します。
船中八策
坂本龍馬が思い描いた世界とはいかなるものだったのでしょうか?
自由に世界を行き来できる世界、縛られるものがない世界、今までとは違った世界を目指していたものと思われます。
明治維新の志士は明治に入ったのちに政治家、経済人、軍人など幅広く活躍の場を日本から世界へと向かっていきました。
龍馬の思いを現在知るすべは、生前に唯一伝えた船中八策から読み取ることができます。
船中八策
- 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還)
- 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事(議会開設)
- 有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革)
- 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事(条約改正)
- 古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事(憲法制定)
- 海軍宜ク拡張スベキ事(海軍の創設)
- 御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事(陸軍の創設)
- 金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(通貨政策)
長崎から神戸へ向かう途中に、藩船夕顔丸にて後藤象二郎に提示し口述筆記されました。
偽物ではという話もありますが、本物だと筆者は考えています。
龍馬は日本の近代化には上記のことが必要だと海外事情から判断したのです。
なぜ龍馬はこうした発言力を有していたのでしょう?最大の疑問です。この謎は下記にて探っていきます。
年号で振り返る坂本龍馬の生涯
前置き文
出典元:こちら
坂本龍馬はどんな人柄だったのか
坂本龍馬は33歳で亡くなっていますが、表舞台で活躍した期間はわずか5年という短さです。
短期間で成し遂げた功績には大きいものがありますが、人柄はどのようなものだったのでしょう?
ここではその人柄を探っていきます。
真綿のような柔軟な思考
龍馬の所持している武器といえば、ピストルが有名ですが所持する理由に龍馬の思考が読み取れます。
エピソードとして、土佐藩士とのやり取りをご紹介しましょう。
幕末、土佐藩士の間では長刀を差して歩くのが流行っていました。
しかし龍馬は短い刀を差していたのです。
出典元:こちら
なぜ?土佐藩士が問うと実践では短い刀の方が使いやすいと話しています。
出典元:こちら
至極柔軟な発想です。この次に会ったとき、この土佐藩士は短い刀を差して龍馬と会います。
しかし龍馬はピストルを懐から出してきました。銃の前では刀は役に立たないからと話して。
この土佐藩士は感心して、3度目に会ったときにはピストルを所持していました。
しかし龍馬が次に出してきたものは、万国公法の書物です。
出典元:こちら
これには土佐藩士もついていけなかったというお話でした。
このやり取りから、龍馬は柔軟な思考で物事に対していたのが分かります。
姉が大好きだった龍馬
坂本龍馬には何人か関係した女性がいます。1人目は平井加尾という人です。
龍馬の初恋の女性とされており、この人とは土佐藩から脱藩後に関係も途絶えています。
次に江戸遊学中に学んでいた千葉定吉の娘、千葉さな子が龍馬と関係してきます。
出典元:こちら
一説には結婚していたという話もあり、山梨県甲府市にある清運寺の墓碑には坂本龍馬室と刻まれているので最初の正妻だったのでしょう。
この女性とは江戸遊学を終えたのちに疎遠となっています。一方でさな子は生涯を独身で通したという話ですので、龍馬も罪作りな男です。
最後に一番有名な楢崎龍、お龍と呼ばれる人が龍馬との関係では深いでしょう。
出典元:こちら
京都の医師の家に長女として生まれ、父が死んで困窮しているときに龍馬と出会ったようです。
その後結婚しますが、結婚生活は龍馬が死んだことでピリオドが打たれます。
この他にも関係した人がいたと思われますが、確認できるのはこの3人です。
上記3人のうち、千葉さな子と楢崎龍には共通点があります。両人とも強い女性という部分です。
龍馬は旅先でのこと、女性関係について事あるごとに姉の乙女に相談しています。
出典元:こちら
乙女は母親の幸が亡くなってから、龍馬の教育を代わりに行っていたとのことです。この乙女が当時の女性としては別格の体格をしていました。
身長が約174㎝、体重112キロあったと言われています。そして龍馬が相撲などで勝負しても勝てなかった相手です。
そんな姉に龍馬は信頼を寄せて、誰よりも多くの手紙を書いています。
龍馬の理想の女性は、姉の乙女のように強い女性だったのではないでしょうか。
坂本龍馬の作品
坂本龍馬は様々な作品に登場しています。幕末が人気という部分もありますが、人物的な魅力も大きいところです。
ではどのような作品に登場しているのか?大河ドラマ・ドラマ・マンガ・アニメなどの中から有名な作品をご紹介していきます。
龍馬伝
出典元:こちら
主演の龍馬役が福山雅治さんで放映された「龍馬伝」。三菱創業者である岩崎弥太郎の視点で龍馬の生涯を描いた作品です。
経済人として幕末から明治にかけて活躍した岩崎弥太郎は、坂本龍馬をどのように見ていたのか?
客観的視点から見られているのでおすすめの作品です。
JIN-仁ー
出典元:こちら
現代の医者が幕末にタイムスリップする、タイムスリップする作品は数多くありますが医者がという作品は珍しいでしょう。
この作品はマンガで連載され、のちにドラマ化されました。坂本龍馬は重要人物として登場しており、幕末のストーリーも楽しめます。
坂本龍馬の現在(その後の今)
出典元:こちら
坂本龍馬は33歳で亡くなっていますが、その死因は暗殺によるものです。
何が暗殺の原因になったのかは定かになっていません。少なくても当時勢力を持っていた人たちからは邪魔になっていたと言えます。
龍馬の意志は岩崎弥太郎によって具現化していきますが、この2人は最後に仲違いしてしまっているのを知っていますか?
海援隊の会計担当の立場だった弥太郎と、海援隊士の間には軋轢が生じていました。
出典元:こちら
決定的な事件はイギリス水夫殺害事件で、海援隊は弥太郎の言うことを聞かずに待機命令を無視してしまったことです。
疑いが土佐藩に向けられており、海援隊の姿に似た人物が犯行に及んでいたので下手な行動は命取りとなります。
しかし海援隊士はこれを無視するのです。龍馬が留守の間、土佐商会を通じて海援隊の面倒を見ていた弥太郎は責任を問われます。
話の流れからして、明らかに海援隊側に非があるでしょう。弥太郎は海援隊士に泥をかけられた格好です。
ここで龍馬が海援隊士を引き締めていれば問題なかったのですが、龍馬は海援隊士を擁護します。
海援隊士の言い分を聞いて、弥太郎を色眼鏡で見たのでしょうか?それとも弥太郎をスケープゴートにガス抜きを図ったのか?
弥太郎からすればたまったものではありません。弥太郎は龍馬の意志を継ぐように、商業で大成功します。
ですが龍馬の意志というより、自分自身で道を切り開いたという方が正しいでしょう。
龍馬は時代に必要とされて活躍し、幕末の終わりとともに役割を終えたから歴史に抹殺されたと考えられます。
坂本龍馬に関する説
坂本龍馬についてはこれまでで多くのことをご紹介してきました。
ここではご紹介しきれなかったことをお話していきます。
フリーメーソンと関係があった?
出典元:こちら
フリーメーソンの名前を聞いたことがある人も多いでしょう。
秘密結社であり、陰謀論を語るうえで必ずと言っていいほど登場します。
龍馬とどのような関係があったのか?という部分ですが、ここに明治維新影の功労者が見え隠れするのです。
トーマス・ブレーク・グラバーという人物を知っていますか?長崎にグラバー商会を構えて、維新志士をバックアップしていた人物です。
このグラバーですが、フリーメーソンのメンバーだったのではないかと言われています。
長崎にあるグラバー邸は観光名所となっていますが、このグラバー邸で維新志士たちは極秘裏に集っていたのです。
出典元:こちら
龍馬だけでなく、他の維新志士も支援していたグラバーの意図は何だったのか?
龍馬があれほど活躍できた理由は、グラバーの支援があったからではないのか?筆者もこの考えには同感しています。
一介の土佐藩士、脱藩していた時期もありますのでなんの後ろ盾もない人物が縦横無尽に活躍できるのか?
グラバーが裏から支援していたからこそ活躍できたと考えるのが自然です。
真相はやぶの中ですが、現在のところ筆者にはこの龍馬の背後にはグラバーが控えていたという説は一番強いものと言えるでしょう。
坂本龍馬の家系
坂本龍馬には子どもがいませんでした。その後の坂本家はどうなったのか?
家系図を基に見ていきましょう。
出典元:こちら
龍馬の子孫ではありませんが、龍馬の長姉千鶴の子が坂本直と改名し家名を継いでいます。
この坂本家は龍馬の夢だった北海道の北見に一族を挙げて移住し、現在まで存続しており坂本龍馬記念館もあるのでぜひ行ってみてください。
まとめ
自分の人生を全うできたかと言えば、暗殺されてしまったのでその後の人生をどう過ごす予定だったのか?
龍馬自身の言葉では、「世界の海援隊をやろうか」と話していたので岩崎弥太郎の仕事はそのまま龍馬の仕事だった可能性が高いです。
坂本龍馬の生き方は万人がマネできませんが、自由に生きるという一つの例のだと思えます。