戦艦大和と言えば、日本人であれば大人から子供まで誰でもが知っている日本海軍の戦艦です。
当時、世界最大の戦艦であった大和は真珠湾攻撃が決行された1941年12月8日の8日後、就航しますが、1945年4月7日航空機による集中砲火を浴び、4時間で鹿児島県坊ノ岬沖で撃沈され海底に沈みました。
・生存者:276人
・死 者:3056人
今回は、「戦艦大和概要と最後の日何が起きたのか」「大和に乗船していた人数, 生存者や死者数, 遺体はどうなったのか」をお伝えいたします。
※アイキャッチは「ファッションプレス」より引用しました。
戦艦大和概要と最後の日:
出典元:こちら
戦艦大和概要:
寸法, 基準排水量:
・全幅:38.9メートル
・基準排水量:6万4000トン
どのくらい大きいのか?:
近い大きさでは、
- 「横浜ランドマークタワー」296メートル(70階建)
- 関西で言えば「りんくうゲートタワービル」256.1m(56階建)
の高さと同じくらいです。大和は巨大な戦艦でした。
大和の特徴:
大和の主砲は46センチ砲で、3基9門搭載していました。
当時、アメリカの主力艦の主砲は40センチ砲でしたので、間違いなく世界一大きな主砲を搭載した戦艦でもありました。
戦艦大和最後の日:
昭和20年(1945年)
4月5日
大和に出撃命令が下ります。
大和に課せられたミッションは、制空権, 制海権をアメリカに握られた沖縄本島の海岸に乗り上げ、砲台として、アメリカ軍を攻撃するというものでした。
大和が出撃したとしても沖縄へ到達する前に米軍の攻撃を受ける可能性も高く、反対者も多かった中、大和所属の第二艦隊司令長官伊藤中将は「一億総特攻の先駆けになって欲しい。」という命令を承諾したと言われています。
4月6日 15時20分
戦艦大和を含め軽巡洋艦, 駆逐艦計10隻は、山口県の徳山湾から出撃します。
4月7日
大和を含む10隻の艦隊は、目的地をふせるため、西に一直線に進んで来ましたが、鹿児島県南岸の「坊ノ岬」を通り過ぎた地点でアメリカ軍の偵察機に発見されます。
米軍機の攻撃が開始されたのはお昼12時34分だったと伝えられています。
米軍の航空機による攻撃は3回にわたり、2時間続きます。
総計400機の攻撃を受けたと言われています。
更に米軍の魚雷の10本が大和に命中し、爆弾8発も命中します。
バランスを取り続けられるように設計された大和でしたが、米軍の片側を集中した魚雷攻撃で、左に傾いていきました。
能村副長は司令塔最上部に上がっていき有賀艦長に「復旧の見込みがないため総員の退去」の進言と許可を求めたのが14時17分過ぎでした。
そして14時23分, 大和は急に左に傾斜し転覆。転覆と同時に弾薬庫に引火し爆発。
そして沈没していきました。
大和を含め、沈没した船は6隻, 無事帰還できた4隻の中でも無傷なのは1隻だけでした。
大和の乗船者, 生存者, 死者と現在:
出典元:こちら
大和の乗船者数など:
・生存者:276人
・死 者:3056人
乗船者数などの根拠:
出典元:こちら
大和乗船者などの数については、実際に大和に乗船して、無事に帰還できた大和の副長,能村次郎大佐が情報源になっています。
同氏は、後に「慟哭の海」(どうこくのうみ)(中央公論新社)を出版し、大和について記していますが、その巻末には、戦死者名簿と生存者名簿が記載されているものの数がピッタリとは合わないという指摘もある。
平成17年4月には、大和が建造された町, 呉市に呉市海事歴史科学館として大和ミュージアム(広島県呉市宝町5-20)がオープンしたが、この大和ミュージアムでも乗船者数, 生存者数について、上記の数字を正としている。
生存者はどのように救い出されたのか?:
大和沈没は4月7日14時23分。
更なる空襲の気配がないことが確認できた後、残った4隻によって、大和の乗組員たちの救出作業は行われる。
乗組員たちは、横倒しになった大和の右舷から退艦したと考えられるが、司令塔近辺にいた司令塔部員の生存者が少ない理由は、大和の巨大煙突に吸い込まれたためである。と言われています。
大和から無事に帰還した吉田満少尉の手記によれば、沈没から3時間ほど経った日没近くに救出されたと語られている。
大和乗船者の死者数の数はどのくらいの規模なのか?:
・1942年6月に起きた「ミッドウエイ海戦」で、日本は空母4隻と航空機300機を失いますが、この時の日本側の死者が3064名でした。
ミッドウエイ海戦での被害者数とほぼ同数が亡くなっていることになります。
・また、16両編成の新幹線の定員が約1300人ですので、16両の新幹線の2回分以上の方が大和に乗船して亡くなったことになります。
戦艦大和の現在:
出典元:こちら
大和は、現在も沈んだままの状態になっています。
広島県呉市では、2016年5月に3週間以上をかけて鹿児島県枕崎市から約200キロ沖合の海底の調査を行いました。
水深350メートルの海底に無人の潜水探査機を使い大和の船体を撮影したのです。
同年6月22日に呉市は、海底に沈む「戦艦大和」の最新映像をメディア向けに公開し、現在、その映像の一部を大和ミュージアムで見ることができます。
映像の中には、艦首の菊の紋章や、直径5メートルのスクリューなども撮影されています。
筆者の考え:
沖縄の制空権, 制海権をアメリカに奪われた後の大和の沖縄に向けての出撃に対して、乗組員を含め命令を下した側でも、戻れる見込みのない作戦だったのだと思います。
ミッドウェイ海戦で、空母4隻を失い、戦艦大和で立ち向かわなければならなかったほど、日本の劣勢は明らかになっていたのだと思います。
世界最大の戦艦は、沈みましたが思い出としてあるいは歴史の一頁として永遠に語り継がれることでしょう。