戦国武将の中で、人気が高い武将は織田信長・上杉謙信・伊達政宗など個性豊かな武将たちが思い浮かびます。
その中でも武田信玄は、「風林火山」・「人は城、人は石垣・・・」など会社経営者が学ぶべき人物としても注目されている存在です。
今回は武田信玄を深く掘り下げてご紹介していきます。
一つ雑学としてご紹介しますが、武田信玄は山梨県で現在でも武田信玄公と呼ばれていることを知っていますか?
公という文字は最大限の尊称なので、それほど武田信玄は敬われているのです。
努力して上り詰めると、人はどこまで行けるのか?武田信玄を知れば、人の可能性が見えてきます。
武田信玄とは
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武田信玄は甲斐の戦国大名であり、武田氏は戦国大名としては珍しく守護大名家として存在していた家です。
守護大名という存在は、下克上の波にさらされてほとんどが滅びてしまっています。そうした中で生き残るという、稀有な例です。
なぜ武田氏は生き残ることができたのか?
ここには大きな理由が2つあります。
1.信玄の父である「信虎」の存在
1つは武田氏当主に能力が高い人物が登場したからです。その人物は、信玄の父である信虎でした。
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信虎はその父である武田信縄が若くして死んだため、わずか14歳で家督を継ぎます。
ここで当時、どれほどの領地を持っていたのか?という疑問を探っていきましょう。守護大名家ですが、甲斐一国が領地ではありません。
当時は下克上の気運が東国甲斐にも到達しており、一族・親族・豪族がそれぞれの権利主張を唱え始め武田氏の領地はみるみる小さくなります。
信虎が家督を継いだころには、豪族と変わらないほどの領地になっていたのです。
領地が削られた状態から、信虎の力量で何とか甲斐をまとめ上げることに成功します。
2.甲斐源氏の嫡流という血統
そして2つ目の理由として、甲斐源氏の嫡流という血統が滅ぼされずに生き残った理由です。
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源氏の系統には色々ありますが、清和源氏だと武門源氏では3系統あります。
河内源氏は源頼朝の系統で、頼朝の子孫が死んだのちは足利氏が嫡流です。賀茂源氏は早々に没落してしまいました。
そして甲斐源氏、源義光から始まる系統ですが代々甲斐を拠点としています。嫡流は武田氏を名乗り、一族で甲斐へ勢力を広めてきたのです。
甲斐において嫡流家を支えるということより、自分の家の発展を考えたところから始まります。
こうした中で武田氏は信虎の元で勢力を回復し、信玄の代になっていくのです。
武田信玄ははいつ活躍した人物なのか?
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武田信玄は上記までに見てきたように、父は武田信虎、母は大井夫人の元に生まれています。
活躍した時代はお分かりのように、戦国時代です。
父の信虎を追放したことによって、親不孝者の烙印を押されましたが実際は事情が異なります。
信玄の父信虎は確かに甲斐一国をまとめ上げました。しかし、考えてみるとこれは武田家の都合です。
他の家にはまるで関係のない話だと言えます。信虎は甲斐をまとめ上げて、外征を積極的に行いますが、不満は募る一方です。
真実は信玄が主導して行ったことではなく、家臣たちによるクーデターだったのではと考えられます。
信玄はクーデター後の傀儡として、初めは立てられただけの存在だったのです。
その後信玄の努力によって家臣たちを上手く掴んで、戦国大名として名をはせる存在になります。
ところで信玄というのは出家後の法名であり、晴信という名前が正式な名前です。
戦国時代は下克上の風潮が蔓延し、力量を示さなければすぐに取って代わられる世の中でした。
現代でも実力があれば上り詰めていけますが、この時代ほど実力が重要視された時代はないでしょう。
武田信玄は何をしたことで有名なのか?
武田信玄の行ったことで有名な部分は、戦と内政が挙げられます。
戦
まずは戦から見ていきましょう。
信玄は名将と言われていますが、生涯で負けた戦もあります。
それも同じ相手に負けているのです。上杉謙信ではありません。謙信とは川中島の戦いで互角の戦いを演じています。
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村上義清という戦国武将
その相手とは村上義清という戦国武将です。
信玄の武田氏と同じく清和源氏に属する村上氏ですが、歴代当主の中で一番の人物です。
信玄を2度も破った実力は、信濃北部から東部にかけて支配下に置くほど実力がありました。
この敗北で信玄は多くの家臣を失います。中でも板垣信方、甘利虎泰の2名は宿老として信玄を支えていた人物です。
しかしここからが信玄を名将としていく下地になります。信玄にしてみると、信虎時代からの家臣である2人は目の上のたんこぶです。
その2人が同時に死んだことによって、信玄が思い描く家臣登用をできるようになりました。
戦についても、信玄は現在でも取り上げられているユニフォームを統一して士気を高めています。
具体的には色の統一です。甲冑の色を赤に統一し、士気を高めたのです。工夫を重ねて、信玄は名将と言われるようになっていきます。
内政
内政についても、有名な部分では治水対策が挙げられるでしょう。古来より甲府盆地は水害が悩みの種でした。
信玄の代まで水害対策はなされておらず、信玄が治水に目を向けたのは内政にも力を入れようとした証拠です。
信玄堤は御勅使川と釜無川の合流地点である竜王に堤防を築いて、水の流れを弱めることに成功しています。
年号で振り返る武田信玄の生涯
武田信玄について、生涯を年代を追って見ていきましょう。
信玄は戦国時代の中期くらいに勢力を広げており、年代を追えばどのように拡大していったのかが見えます。
- 1521年(大永元年)武田信虎・大井夫人の元に生まれる。幼名は太郎
- 1536年(天文5年)足利幕府12代将軍義晴から偏諱を賜り、晴信と名を改める
- 1541年(天文10年)信玄クーデターによって武田氏当主となる。
- 1548年(天文17年)上田原の戦いで村上義清に敗れる。信濃制圧はここで一時ストップする
- 1550年(天文19年)戸石城攻防戦で再び村上義清に敗れる
- 1551年(天文20年)真田幸隆の策によって戸石城陥落
- 1553年(天文22年)葛尾城攻めで村上義清を越後へと追いやる。同年第一次川中島の戦いで上杉謙信と初めて戦う
- 1554年(天文14年)甲相駿三国同盟成立
- 1555年(弘治元年)第二次川中島の戦い
- 1557年(弘治3年)第三次川中島の戦い。同年上野へ出兵
- 1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで今川義元織田信長に敗れ戦死
- 1561年(永禄4年)第四次川中島の戦い。激戦で多数の戦死者が出る、中でも実弟の信繁が戦死したダメージは大きい
- 1564年(永禄7年)第五次川中島の戦い
- 1568年(永禄11年)甲相駿三国同盟破棄
- 1573年(天正元年)西上を目指すが伊那駒場で病死
武田信玄はどんな人柄だったのか
武田信玄はイメージとして偉大な名将というイメージがありますが、実際には作られたものです。
年表でも見たように、村上義清には負けています。負けて、工夫したからこそ信玄は強くなれたのです。
偶像ではない、本来の信玄はどのような人物だったのか?エピソードを見ていきましょう。
風林火山の旗
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武田信玄といえば、風林火山の旗が有名です。
の頭文字を旗にしていますが、ここには続きがあります。
孫氏の兵法軍争編に書かれているものであり、信玄はこの書かれている内容を忠実に行っていたのです。
分かりやすい比較として、織田信長と比べてみましょう。信長は尾張から美濃、近江、京へと勢いで兵を進めています。
対して信玄は陣取り合戦と同じで、派手さはありませんが着実に支配領域を広げていくのです。
最終的な支配領域は甲斐・信濃・上野・駿河・遠江などで約130万石ですから、スタートからは相当に肥大しています。
手堅く着実に攻め取った結果でしょう。
若い時は現代のニート
武田信玄を知るうえで、初めから出来た人物だったと考えてしまうかもしれません。
とんでもない、信玄は現代でいうところのニートと同じような生活をしていたのです。
昼間から酒を飲んで、女を連れ込んで遊び惚けていたという記述が残されています。ニートというよりダメな2代目の典型です。
ではなぜ目覚めたのか?
目覚めたというより、父から疎まれて腐っていたと筆者は考えていますがきっかけは板垣信方だと思われます。
この人物は野心家で放っておけば下克上を起こすかもしれない人物です。
理由としていくつか挙げられますが重要なポイントは信濃伊那掃討での行動でしょう。考えられる限りの残虐なやり方を繰り返し行っているのです。
信玄が目覚めた理由は、国を盗られるという危機感からだと思われます。
武田信玄の作品
武田信玄を主役としたドラマ、キャラクターとしてゲームにも多数登場しています。
多くの作品がある中から、有名な作品を何個かご紹介していきますのでぜひ手に取ってみてください。
武田信玄
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大河ドラマでは「風林火山」が近年放映されていますが、この作品はあくまで家臣の山本勘助が主役なのでここでは信玄が主役の作品をご紹介します。
中井貴一さんが主演の大河ドラマ、「武田信玄」は1988年に放送されていた作品です。信玄と信虎との親子の愛憎を描いた作品となっています。
この大河ドラマは視聴率もよかった作品です。
戦国無双
ゲームではこちらの「戦国無双」シリーズが筆者の中では印象が強く残っています。
「戦国無双」は現コーエーテクモから出されている人気シリーズです。現在でも根強い人気を誇っています。
武田信玄の現在(その後の今)
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武田信玄は現在でも現地では尊敬されており、信玄公と呼ばれているということはご紹介しました。
信玄亡き後、武田氏は武田勝頼の代で織田信長に攻められて滅びます。人の連帯を重視した信玄でしたが次代になり、離合集散していくのです。
ここには難しい、後継者問題が浮かび上がってきます。会社経営者であればこの面で反面教師にする必要があるのです。
勝頼は本来後継者ではありませんでした。信玄には武田義信という嫡男がいました。しかし、方針の違いから自害させられるのです。
ナンバー2であった信繁が第四次川中島の戦いで死んだことが響きました。
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勝頼が後継者となったのは1567年(永禄10年)ですから、信玄の死まで6年ほどしか期間がありません。
これでは後継者としての育成も難しく、しかも母親は因縁深い諏訪御寮人です。
諏訪氏を滅ぼした信玄が、敵だった姫に産ませたのが勝頼ですから周囲の目が痛かったことでしょう。
決して凡将ではなく、戦には滅法強かった武将です。信玄が長生きしていたら運命は変わっていたと思われます。
武田信玄が現在に残した功績(伝わっていること)
武田信玄が現代に残したことものには、いくつかありますがご紹介していきます。
人材登用方法
会社で大切なのは、どの人を引き上げるかということです。
一般的に2割ができる、8割ができないと分類されていますができないからと仕事をさせなければ社員は腐ります。
できない人にもモチベーションを高める方法をとりつつ、人物を見極めるという眼力を信玄は備えていました。
これは現代にも活かせるもので、人の本質は時代が変わっても変わりません。
信玄が残した人材登用については、「甲斐国誌」という書物に記されています。経営者の方は一読しましょう。
温泉を多数所有していた
山梨県には現在でも信玄の隠し湯と呼ばれる温泉が多く残されています。
現代でも温泉が好きな人は、色々な温泉に入って気分転換をしますが信玄も入り分けていたようです。
信玄が温泉好きだったおかげで、現在でも温泉を楽しむことができます。
武田信玄の家系
武田勝頼の代で戦国大名としての武田氏は滅びました。
しかし、子孫まで根絶やしになったわけではありません。子孫は現代まで続いており、なんと勝頼の子孫も存在します。
以下の家系図をまずは見ていきましょう。
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現在残っている子孫として、次男の信親の子孫が生き残っています。他には5男の仁科盛信、7男の信清、勝頼の子孫です。
血筋は現代まで続いています。
まとめ
武田信玄についてお話してきましたが、信玄には書ききれなかったお話が多くあります。
歴史上の人物について調べていると、自分の生き方にも変化があるので興味がありましたら調べてみてください。