徳川埋蔵金|いくらの価値があるのか?嘘じゃないか?現在考えられている3つの説

皆さん, 「徳川埋蔵金」って聞いたことがありますか?

江戸幕府の最後の将軍, 徳川慶喜は、1867年10月に朝廷に統治権を返上する大政奉還を勧告し、1868年に江戸城を新政府に引き渡しました。
しかし、江戸城内の金蔵は空で、他の徳川関連の場所からも金塊などの資産は出てきませんでした。

徳川家が御用金、あるいは幕府復興のために蓄えていたはずの莫大な資金は存在するはずであると新政府は考えましたし、民衆もそう考えていました。
また、その手掛かりだとされるいくつかの有力な証拠や証言もでてきていました。
しかし、埋蔵金は現在も未だに発見されていません。

今回は、当時から探し続けられている徳川埋蔵金は本当に存在するのか?存在するのであればどこにあるか?などをお伝えいたします。

徳川埋蔵金は本当にあるのか

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1.テレビで放送された徳川埋蔵金

1-1.実際に行われた発掘作業:

1990年代初頭から1995年まで、計5回にわたってTBSの2時間番組ギミア・ぶれいく」で実際の赤城山中で発掘作業が行われた様子が放送されました。

コピーライターの糸井重里さんをリーダーとする発掘チームが結成され、当時、大変な人気を博しました。
発掘に関わったスタッフは多い時には90名に及ぶこともあり、最大で7代の重機が使われ、60メートル地下まで掘り返されたこともありました。

番組制作に掛かった費用はトータルで3億5千万円になったとも言われています。

1-2.なぜ、この番組では埋蔵金の場所を赤城山であると特定したのか?:

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この番組では、祖父, 父, 子の三代で埋蔵金の発掘を目指している「水野家」に協力を求めました。

水野家の初代である水野智義さんは、徳川家の旗本の家に生まれて幕末の時代には, 薩長と戦ってきた人物でした。
明治に入った後は、東京, 日本橋で両替商として成功し、事業で得た資金を埋蔵金の発掘にあてました。

明治16年, 水野智義さんは、幕末時に公儀勘定吟味役であった知人の中島蔵人さんから徳川埋蔵金について打ち明けられます。

実際に水野智義さんは明治23年に黄金の徳川家康像を発見、その後、埋蔵金の場所が記された銅板も入手します。
しかし、金貨は一枚も見つかりませんでした。

2.徳川埋蔵金はいくらの価値があるのか?

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埋蔵金の額は、360万~400万両であったと言われています。

書面として残っている証拠として、しばしば、勝海舟の日記が取り上げられます。
海舟の日記の中では、
「軍用金として360万両があるものの、これを常備兵を養う費用には当てられない。」
と記載されています。

幕末の徳川家臣の中にも、埋蔵金の存在や金額を承知していた人がいたということになりますね。

2016年に放送されたテレビ番組,「徳川埋蔵金プロジェクト2016」によれば、埋蔵金の評価額は3,000億円になると言っていましたし、違う計算基準でいうと、200兆円であったり、400億円~500億円になるという考え方もあるようです。
いずれにしても莫大な金額ですよね。

引用:「徳川埋蔵金は現代の価値に換算するといくらだったのか?

3.徳川埋蔵金 現在考えられている説

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3-1.明治新政府の調査:

明治新政府は埋蔵金のありかを捜査するにあたって、幕府の財政責任者であった当時の勘定奉行, 小栗忠順を問い詰めた記録が確認されています。
小栗は、大政奉還後は、上野国(群馬県)群馬郡権田村に隠棲していました。

新政府が小栗から何を聞き出したかは、はっきりしていませんが、最終的には、小栗は斬首の刑の処せられます。

大政奉還という比較的平和に権力が移譲された中で、新政府が戦わない幕府側の人物を斬首したのは極めて例外的なできごとでした。

世の中では、「利根川を渡ってきた船から何かを赤城山中へ運び込むのを見た」という証言まで出てきて、小栗が幕府の金を持って逃げた。という噂が飛び交いました。

その後。伝えられるようになったところによると、徳川家内では、井伊直弼が生前から将来に備えて莫大な金を赤城山麓に埋蔵することが計画されており、金を埋めた幕府の家臣の名前も伝わっています。

いずれにしても、埋蔵場所は赤城山であるという点ではどの話も一致しているのです。

3-2.「徳川埋蔵金はなかった」という説:

150年間も出てこない埋蔵金について、「元々なかったのではないか?」という説も多々あります。

「埋蔵金は存在しなかった」とする理由は主にふたつあります。
ひとつは、幕末期の江戸幕府は財政的に厳しく、年中資金難に陥っていたという事実です。
まして、国家予算のような莫大な資金は所有していたはずがないとする考え方です。

幕末には、「生麦事件」, 「薩英戦争」,「下関戦争」という薩長が起こした事件の賠償金支払いを幕府が肩代わりすることになるのですが、この支払義務においても分割払いにしていたほどです。

戊辰戦争が起こる前には、大阪の商人から幕府が15万両を借りたという事実もあります。

もうひとつは、古今東西を問わず、この手の話は決まったようによく噂になるということです。

豊臣秀吉, 武田信玄, 明智光秀などの埋蔵金の話もよく語られますが、実際には見つかったことがありません。

確かに秀吉の後、天下を取った家康やその後, 何代の間、徳川家の財政が豊かだったことは
間違いのない事実です。

しかし、200年後も同じ状況であったかと言えば、そうではなく徳川家も疲弊して財政的に窮していた可能性も否定できません。

3-3.埋蔵金はあるが「掘り起こしてはいけない」説:

実は、日本政府も徳川埋蔵金のありかは既に把握しているが、国民にパニックを与えないように敢えて、発掘作業を行っていないだけだ。という説もあります。

有力視されている場所のひとつは、日光東照宮です。

歴史的に、埋蔵金は3か所に分けて、2か所はダミーで、1か所に大量に埋蔵するという手段が取られるのは稀な話ではありません。
赤城山はダミーのひとつであった。という考え方です。

「掘り起こしてはいけない」というのは、情緒的な感情から来ている意見です。
それを迷信と呼ぶ方もいらっしゃるかもしれません。

もし、幕府が金塊を埋めていたとすると、その作業に関わった人々は、第三者に漏れないように口封じとして殺されている可能性が高いのです。

武田信玄も金の採掘作業をした際に、携わった作業者を全員殺した。と伝えられています。

日本人の感覚から言うと、まず供養しなければならないと思うかもしれませんね。

「平将門の塚」や「ツタンカーメン王の発掘」など、科学的な根拠はなくても、神聖なものや隠されてきたものに触れる時、災害や呪いがつきまとう。と恐れるのは我々のDNAの中に刻み込まれているものなのかもしれません。

筆者の見解

幕府の財政が厳しかったこともあり、国家予算に匹敵するような莫大な資産を徳川幕府が保有していたとは考えていません。

しかし、江戸城が開城された時に資金が全くなかった。というのは不思議な話であり、開場前にすでにどこかへ移送されていた可能性も十分にあると思います。

徳川家に関連の深い人々に分散して管理を任せていた可能性もありえますし、船で海外に持ち込まれたという可能性もあると思います。

埋蔵されたとしても、1か所に集中して埋蔵されている可能性は少ないと考えています。
赤城山は、ダミーであり、幕府の関係者がその噂を流した可能性もあるのではないでしょうか?

皆さんはどのように思いますか?