「マネーの虎」は深夜番組としてスタートし番組内容が話題を集めました!
プレゼンをする挑戦者を吟味する虎(社長達)の個性の強さも番組の特色でした。
今回はマネーの虎の社長たち14名の現在の様子について見て行こうと思います!
- 加藤和也(ひばりプロダクション社長)の現在
- 川原ひろし(なんでんかんでん社長)の現在
- 小林敬(ジャパンフードシステムズ代表取締役)の現在
- 高橋がなり(ソフト・オン・デマンド代表取締役)の現在
- 堀之内九一郎(社生活創庫社長)の現在
- 安田久(エイチ・ワイ・ジャパン社長)の現在
- 吉川幸枝(よし川 社長)の現在
- 上野健一(ノシアスグループ代表)の現在
- 文野直樹(イートアンド社長)の現在
- 尾崎友俐(オリエンタル代表取締役CEO)の現在
- 樋口道也(株式会社ドリーム代表取締役社長)の現在
- 南原竜樹(オートトレーディングルフトジャパン社長)の現在
- 岩井良明(株式会社モノリス社長)の現在
- 貞廣一鑑(株式会社ラヴ代表取締役CEO)の現在
マネーの虎とは?
「¥マネーと虎」は2001年10月~2004年3月まで日本テレビ系列で放送されました。
起業を目指す志願者が事業計画を説明し、審査員(投資家)から出資を引き出す内容の番組で、引き出せなかった場合は立会人の吉田栄作から「ノーマネーでフィニッシュです」と通告される。
番組名の「マネーの虎」は太平洋戦争時の山下奉文(やましたともゆき)大将の異名「マレーの虎」から引用された説が有力ですが、詳細は明らかになっていませんでした。
最初は深夜番組としてスタートし、7%という深夜帯としては異常とも言える視聴率を獲得し、日本テレビはゴールデンタイムへ移す決断をしますが、過激な内容から視聴率は低迷しました。
その後、深夜帯に戻るものの人気は回復せず打ち切りとなりました。
コンセプト自体の出来が良かった事から「Dragon’s Den」名称でイギリスで番組化された他、オーストラリア、ニュージーランド、イスラエルなど世界25ヶ国で現地版が作られました。
ロゴには「NO CHALLENGE, NO SUCCESS ※チャレンジしなければ成功なしの意」が添えられており、その言葉に番組としての主張が全て詰まっている印象を受けました。
マネーの虎 成功者達(9名)の現在まとめ
まだテレビが元気だった時代だからこそ成立したリアリティー番組が「マネーの虎」です。 今放送したら間違いなく「パワハラだ」とバッシングを受けてしまうハードな内容でした。 今回は虎達を納得させ、マネー成立後に起業して成功した主な志願者について紹介します!
加藤和也(ひばりプロダクション社長)
出典:ザテレビジョン
加藤 和也(かとう かずや)さんは1971年8月10日に東京都で生まれました。
昭和の歌姫・美空ひばりの長男(弟の子だったが7歳の時に養子縁組)として知られ、中野高校を停学後に中退して若干16歳でひばりプロダクションの副社長に就任(翌年社長に就任)
ひばりさんが亡くなった後も「ひばりプロダクション」の社長として版権を一手に扱いながら、音楽プロデューサーや芸能プロモーターとしても活動していました。
虎としての加藤和也さん
出典:bokete
虎としての加藤さんは基本的に穏やかな口調で語りかけるスタイルでした。
主に芸能系や接客関係の志願者に対して関心を寄せる一方、得意分野ではないジャンルだと他の社長のやりとりを聞いて理解するタイプのキャラクターでした。
事業内容より志願者の人格を重視するタイプで、定期的に出資をしていましたが、何か筋を通していないタイプの志願者に対して激怒する事も度々ありました。
「志願者と一緒に成長して行きたい」が出資者としてのポリシーと語っていました!
現在は結婚して仕事も順調
加藤さんは2000年に俳優の浜田光夫さんの長女(友香さん)と結婚しました。
ハワイで極秘に挙式し、2005年2月13日に結婚を祝う会が東京都の新高輪プリンスホテルで行われ、多くの芸能人に交じり虎たちも出席していました。
現在のところ子供を授かったとの情報はありませんでした。
事業面では第三者が開業して負債を抱えていた「京都嵐山・美空ひばり座」を買い取り、再建を計るも2013年5月に負債を清算して廃業させていました。
同じ時期に東京にあるひばりの自宅を記念館として公開する一方、京都の映画文化館1階に「京都太秦・美空ひばり座」を開業しひばり座を再スタートをさせていました。
現在、一部報道で東京都目黒区にある「美空ひばり記念館」の売却話が伝えられていますが、この後どうなって行くのかについても慎重に見守りたいですね。
川原ひろし(なんでんかんでん社長)
出典:netgeek
川原 ひろし(本名:浩史)さんは 1964年3月13日に福岡県福岡市で生まれました。
川原さんはクラシック音楽の魅力に嵌まりピアノを練習し、オペラ歌手を目指します。
音大を目指したが断念するも歌手を目指して上京し、雑誌に掲載されていた作曲家の募集に応募して東芝レコードから「打碁一代」という曲で作曲家デビュー。
しかし、自分が歌いたい思いを捨てきれず銀巴里(ぎんパリ)のステージにも立ちました。
その後は漫才師や漫談家として活動しつつ、師匠の宮城けんじの応援もあり「博多ラーメン」を修得する為に帰省して実家の台所で研究を重ねます。
1987年7月に再上京して環七通り沿いにとんこつラーメン店「なんでんかんでん」を開業し、5年後には1日で120万円を売り上げるほどの繁盛店となりました。
その後も店舗を拡大して最盛期には年商5~6億円とも言われていました。
虎としての川原ひろしさん
出典:naver.jp
虎としての川原さんは細かな数字や理論的な話題はしない感情型のタイプでした。
志願者への好き嫌いがハッキリするタイプで、波長が合わない志願者には厳しく当たる傾向があり、理論派の岩井さんや南原さんとは対立する構図が頻繁に見られました。
事業内容より志願者の人格や人間性を重視するタイプで、比較的多く出資していました。
「天才肌や宇宙人みたいな人に出資したい」と語っていました。
現在はラーメン屋を復活させていた
出典:飲食店.com
2012年に環七添いの本店が閉店し、残りの店も2015年末で全て閉店しました。
転落の理由は「ラーメンのスープを4倍に薄めていた」とテレビ番組で告白していましたが、実際のところは少し内容が違っていたと振り返っていました。
「スープが足りなくなった時に、どうしても食べたいという人がいる時には店を閉めて“お金はいいから”と薄めて出して食べさせた事はあります、とは言いました。それが、あの番組は収録の前日深夜に台本が出来上がるのですが、その台本を見たら“4倍に薄めた”になっているわけです。さすがに4倍って事はなかったです(笑)」
引用:飲食店.com
テレビで行われている演出や大げさに言う悪癖を見てしまった感じですね(笑)
2018年9月3日に東京・高円寺でついに「なんでんかんでん」が復活しました!
店には行列が出来るほど繁盛し、川原さんも調理や接客にあたっているそうです。
小林敬(ジャパンフードシステムズ代表取締役)
出典:小林さんのtwitter
小林 敬(こばやし たかし)さんは1957年11月22日に北海道函館市で生まれました。
函館有斗高校を卒業後は大阪の「あべの辻調理師学校」へ進み調理の道へ入りました。
専門学校を卒業後はフランス料理店に勤務し、1979年に函館へ戻り「らんぷ亭」を開業。
1982年に再び大阪へ行きフランス料理店に務めながら、食肉卸売会社のシステムエンジニアとしてシステム開発に携わり、1991年に小林事務所を設立しコンサルタント業も開始しました。
虎としての小林敬さん
出典:毒女の黒いウワサ.com
小林さんは料理人としての感覚と「フランチャイズ経営」の面から志願者を吟味し、ここで手を抜いた資料を作ってきた場合は即座に激怒するタイプでした。
ただ、キチンとした資料や方針を描いている志願者には丁寧に接し、穏やかな態度で話しますが関西弁の口調も相まって恐ろしい印象を受けてしまいます(笑)
「信念とフロンティアスピリッツを持った人に投資したい」と語っていました。
現在もコンサルタント業で活躍
出典:みんなの飲食店開業
2005年に廃業した長崎オランダ村の跡地を再開発した「食」のテーマパーク「キャスビレッジ」をプロデュースし、その親会社「CASジャパン」の取締役に就任しました。
しかし、開業からわずか半年後の2005年10月3日に「CASジャパン」は経営破綻し、関連施設は即日閉鎖となり、小林さん自身も約20億円の負債を背負って自己破産していました。
小林事務所はシダックス傘下の「ヴァスフードサービス」に移管され、2007年4月には合併する形で「シダックスレストランマネジメント」にに経営統合されました。
2008年6月:シダックスの執行役員に就任 (翌年2月に退任)
2009年2月:ジャパンフードシステムズの社長に就任(同年8月に辞任)
2009年10月:新たに小林事務所を開業。
2010年2月:京都市にプロデュースした「QUATTRO CINQUE」を開業(6月に閉店)
2010年3月:大阪府高槻市に「QUATTRO CINQUE」を開業。
2013年7月:テンポスバスターズ取締役商品部統括本部長に就任(翌年7月に退任)
2016年12月:ビーパワーソリューションズのアドバイザーに就任(~現在)
随分と転々としていますが、辞めてもすぐにそれなりの役職に就けるのが凄いですし、小林さんの才能は同業者から高く評価されていると言えますよね。
高橋がなり(ソフト・オン・デマンド代表取締役)
出典:目黒FM
高橋 がなり(たかはし がなり)さんは1958年12月15日は神奈川県横浜市で生まれました。
本名は雅也(まさや)さんで、いわゆるペンネームとして「がなり」を使用しています。
大学受験に2回連続で失敗し、貿易関係の専門学校へ進みました(卒業したかは不明)。
様々な職を転々とし、テレビ番組制作会社「IVSテレビ制作」へ入社してテリー伊藤(同社の先輩ディレクター)と出会い師弟関係を結んだと言われています。
その後はテリー伊藤氏らから投資を受け、1995年12月にSOD(ソフト・オン・デマンド株式会社)を設立して2000年から2005年まで社長を務めヒットを連発させました。
虎としての髙橋がなりさん
細かな計画やら事業内容はあまり気にしていない様子で、何よりも応募者の人間性や経歴(学歴ではなく生きてきた流れ)を重視する傾向がとても強い人物でした。
ある程度の資金力や人脈がある応募者には投資せず、いわゆる「弱者」に対しての投資意欲が強く、応募者を通じて社会貢献を果たす事を望んでいました。
他の虎達と比べても出資する事が多く、穏やかな人柄が特徴的でした。
現在は農業経営に没頭?
出典:髙橋さんのtwitter
2005年に「ソフト・オン・デマンド」代表取締役を退任し、2007年に国立(くにたち)ファーム有限会社を設立して自らが代表取締役に就任しました。
新たな事業として農業経営に注目し、採用時には過去の経歴を問わない姿勢を貫き現在では100名を超える社員が所属していると言われていました。
「ソフト・オン・デマンド」退任後も影響力を保持しており、2013年に会社へ乗り込み「こんなSODはいらない!」と発言し、2016年春に役員・部長職を全員クビにしたそうです!
その後は「ソフト・オン・デマンド」の相談役のような立場と国立ファーム有限会社の二足のわらじで忙しい日々を過ごしている様子でした!
堀之内九一郎(社生活創庫社長)
堀之内 九一郎(ほりのうち きゅういちろう)さんは1947年10月5日に鹿児島県鹿屋市で生まれますが、珍しい名前でもある”九一郎”は九番目にして初の男子だったからでした!
九州産業大学を中退後に堺化成工業株式会社へ入社しますが、両親が相次いで他界したため家業の雑貨屋を継いで経営をしますが倒産してしまいました。
2億円ほどあった親の遺産を女遊びで使い切ったり、40種以上の職種で起業と倒産を繰り返してホームレス生活にまで経験しますが、それでも諦めない精神力が凄いですよね。
捨てられてあった家電を売るなどして集めた18万円を元手に、倉庫で「リサイクルショップ・生活創庫」を開店させ、1992年に法人化し最盛期の年商は102億円だったそうです。
虎としての堀之内九一郎さん
番組開始からほぼ毎回出演しますが、とにかく出資をしない事で有名になりました。
番組MCの吉田栄作さんからも「なぜ出資しないんですか?」などと追及されるも、自身の経験からシッカリとした経営ビジョンを持たない人に出す気はサラサラ無い様子でした。
志願者に対して攻撃的な姿勢を取る事が多く、他の社長達とも衝突していました。
その一方で、リハビリを乗り越えてアクロバットパイロットになりたいと志願してきた女性には、細かな計画を聞く前に出資を宣言する人情味がある場面もありました。
堀之内さんが出資した(出資しようとした)志願者は成功している場合が多いです。
現在は鑑定士として再出発
最盛期の年商が102億円もあった「生活創庫」は2013年5月1日に倒産していました。
ネットオークションなどでの個人売買が主流となり、店舗を構えて中古品の売買をするシステムが時代に合わなくなったのが倒産の大きな原因だと思います。
赤字の穴埋めとして自宅などの資産も全て手放しましたが、最近ブームのお宝発掘系の番組に「鑑定士」として登場して目利きや評価額を付けていました。