お茶をやっていた方なら誰でもがご存知の千利休。
表千家, 裏千家の創始者です。
最終的には、秀吉に命じられ、1591年4月21日に聚楽屋敷内で切腹して69歳で亡くなります。
今回は、千利休が切腹となったホントの理由を史実と秀吉の内面の問題の二つの方向から考えてみたいと思います。
また、利休が伝えたかったもの、現在にまで残したものについてもお伝えいたします。
利休は何をやっていた人なのか?:
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利休は1522年に和泉国・堺(大阪府堺市)の納屋衆(なやしゅう)の家に生まれます。
納屋衆とは品物を倉庫に保管して、売買する商人のことです。
当時の商人は、文化人としての一面も持ち、17歳で茶道を始め、当時、堺を支配していた三好氏の元で、財力を築いていきます。
1569年(利休 47歳の時)堺が、織田信長の直接支配を受けるようになると、利休は信長に召し抱えられます。
茶道の指導者としてだけではなく、織田家の武器調達の役目や世の中の動きを伝えるコンサルタントとしての役目も担うようになります。
1582年本能寺の変により、信長が亡くなった後は、秀吉に仕えるようになります。
信長や秀吉のように多くの武士の茶の指導にあたり、徐々に、コンサルタントとして第一線の文化人, 芸術家としてあがめられるようになっていきます。
1585年(利休63歳の時)には、皇室から「利休」の名の居士号を与えられ、秀吉の「黄金の茶室」,「聚楽第」の庭の設計にも携わっています。
秀吉の逆鱗にふれたのが、1591年(利休69歳の時)で、堺に蟄居(ちっきょ)を命じられた後、同年、秀吉から切腹を命じられ、4月21日にこの世を去りました。
利休が切腹になった史実的理由:
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利休の発言力の増加:
ドラマでも定番となったシーンのひとつが、秀吉が客を茶室に招き、利休が茶をたてて、もてなすという場面です。
小さな茶室という空間で、限られた人数での話は、政治的な話や深刻な話にも適していました。
秀吉が、信長に引き続いて利休を家臣にした理由のひとつは、利休が当時の日本の最高の文化人であり、茶人,芸術家であったためであり、天下を取った秀吉自身の権威を世の中に見せるためのものであり、利休が各大名の信頼を得て、政治的な発言力が高まっていくことを必ずしも望んではいなかったと考えられます。
利休と秀吉の関係が悪化した時期は?:
豊臣家内部が結束できて天下取りができた理由のひとつは、当然、人柄も含めて秀吉の能力が高かったことだと思いますが、それだけではありませんでした。
戦をするにしても、城を建てるのにも、情報を入手するにも、人と付き合うにしてもお金が必要です。
豊臣家の盤石な資金集めをしていたのは、秀吉の弟、秀長の功績であり、弟、秀長は家康や伊達政宗などの外様大名との調整役も果たし、ドラマで語られている以上に豊臣家の安定に欠かせぬ人物でした。
利休と秀長との関係も良好でした。
秀吉, 秀長, 利休の3人で支えてきた豊臣家の繁栄は、弟、秀長が1591年に亡くなると、バランスを崩し、秀吉の利休の関係が悪化していきます。
史実に見る利休と秀吉の関係悪化の原因:
1) 自治都市であった利休の本拠地、堺は、秀吉によって重税を課され、堀も埋められ、堺衆だけで外部からの攻撃に武力対抗できなくなったのです。
2)利休に20年間茶の湯を学んだと言われる利休の弟子の山上宗二(やまのうえ そうじ)の処刑も利休と秀吉の関係悪化に深く関わっていると言われています。
宗二も秀吉に仕えていましたが、あまりにも、ストレートな物言いに秀吉の怒りを買い、その後、小田原の北条家に仕えることとなるが、秀吉の北条攻めの際に再び、秀吉との面談の機会があり、秀吉が再度、豊臣家に仕えることを助言するものの、断ったため、処刑されてしまったのです。
3)また、利休のお墨付きのある茶碗は極めて高値で取引されていた。と言われています。
中には、城は渡しても、利休の茶碗だけは手放さない。という武士も実際にいた。と言われています。
そんな風潮を秀吉は快く思っていませんでした。
4)利休には何人かの娘がいましたが、その内ひとりを秀吉が側室にしたいと利休に申し出します。
しかし、利休はその申し出を断っています。
5)利休が蟄居を命ぜられる直接の原因だと言われているのが、大徳寺三門の上に置かれた「利休の木の像」が原因だったと言われています。
利休は自身の住居にあった大徳寺三門の建て替えに多大な援助をします。
これに対して、住持の古渓宗陳(こけいそうちん)は感謝を込めて利休の像を作り、三門の上に祀ったのです。
この話を聞いて、天下人であった秀吉は、「トップである自分が三門を通る際に、利休の草履に頭を踏みつけられるというのか?」と怒ります。
秀吉は、利休がトップなのではない。自分がトップなのだと言いたかったのでしょうか?
利休切腹の命は秀吉の内面の問題?:
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秀吉の性格や行動は変わってしまった?:
「秀吉の性格はある時期から変わってしまった。」そんな風に感じたことはありませんか?
数々の実力のある武将が揃っていた中で、常にひたむきで、一生懸命で、時には殿(しんがり)を務めた秀吉は最も信長に尽くした人だったと多くの人が感じているのではないでしょうか?
加えて、いつも人懐っこく、人情味のあった秀吉は、信長の死後変わってしまいます。
信長の死後、織田家を壊滅に追い込んだだけでなく、
- 北条氏政, 氏直の小田原城開城後の切腹の命令
- キリスト教徒たちの惨殺
- 朝鮮出兵
- 甥の豊臣秀次を自殺へまで追い詰めました
残忍で、無慈悲な行動を繰り返していきます。
何が秀吉の内面を変えたのか?:
すばり、秀吉は「信長コンプレックス」だったのではないでしょうか?
農民の出身の秀吉は、信長から与えられたチャンスを活かすべく、全身全霊で信長に尽くします。
おそらく、頭の中は絶えず「信長のために」で一杯だったことでしょう。
信長は、秀吉にとって、「父であり」「兄であり」「社長」でありすべてだったのでしょう。
信長に仕えていた秀吉は、常に「認められたい」存在であったのと同時に「怒らせてはいけない」“畏怖”(いふ)の存在だったのだと思います。
信長死後も秀吉は、「信長の影」に怯えます。
天下をとった秀吉の目標は、現実の世界の「家康」や「朝鮮」ではなく、亡くなった「信長」であり、信長のようになること, 信長を超えること。
それだけだったのではないでしょうか?
ルイス・フロイスによれば、大阪城築城の目標は信長の安土城よりも豪華なものを建てることであり、秀吉はいつも信長を超えることをしようとしている。と言っています。
秀吉にとって利休とは?:
利休は、信長が対等な関係で付き合っていた数少ない人間でした。
また、利休も信長の人間性や考え方に深い理解を示していました。
秀吉は、「信長のようになるために、利休と対等に付き合えるようにならなければならない」
そんな風に思うことは自然なことであったのではないでしょうか?
秀吉が利休に向き合うとき、
・自分はどうせ信長のような器でもないしお前もどうせ俺のことをバカにしてるんだろう。
・でも、今は俺が天下様であり、お前にとっての信長だ。
そんな秀吉の心の声が聞こえてくるような気がします。
信長を思い出させる信長時代からの遺産であった利休の存在は、秀吉にとって、どこかで消滅させなければならない存在だったのかもしれませんね。
利休が現在まで残したものは?:
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利休が生きた時代とは、室町幕府が力を失い、世の中が乱れ、下剋上の戦国の世の真只中でした。
そんな時代の中、多くの人間にできることは、自然の中に見られる小さな美しさ、豪華ではないけれども、どこか味のあるものに、そっと心を通わせる心だったのではないでしょうか?
現在, 私たちが生きているストレス社会も大変な時代だと思います。
日々忙しく、変化していく社会の中で、自分らしく生きていくことを肯定していかないと、心が疲弊し、うつ病になったり、引きこもりになってしまったりすることもあるでしょう。
ネガティブな思いになることは誰でも経験することですが、そんな時は、ふっと気を緩めて自然の中の小さな美しさを見つけようとする習慣がつけば、案外いろんな苦難を乗り越えられるかもしれません。
落ち着いて茶をたてて出すことは、今でも「おもてなし」の基本ですし、お茶を飲みながらゆったりと過ごすことは、現代人がもっとも気軽にできるリラックス方法のひとつです。
筆者の見解:
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最近よく語られる説の中に、「実は秀吉は信長を憎んでいた。本能寺の変が起きるように秀吉がシナリオを描いていた。」というのがありますが、著者はその説にはどうしても無理があるように感じています。
理由は、史実を見ても秀吉の「信長ファースト」の行動は明らかだからです。
しかし、信長の死後、秀吉の性格が全く変わってしまったのだと思います。
信長という自分の中の最大の権威を失った秀吉の脳は、誤作動して「信長を超える」ことだけを目標にセットされてしまった。
織田家を壊滅させ、甥の豊臣秀次を自殺に追い込むことなど、一連の秀吉の行動は、秀吉の能の誤作動であり、誤作動し始めた秀吉の能は、信長の影を感じさせる利休の存在を消し去ること以外の方法は考え出せなかったのではないでしょうか?
仮に大徳寺三門の利休の問題がなかったとしても、秀吉は理由をつけて利休を死においやったのではないでしょうか?