野村克也(ノムさん)の現在。やっぱり凄かった!選手時代&監督時代の成績や名言まとめ

野村克也さんと言うと、野村監督(ノムさん)のイメージが強くて、現役時代を知らない方も多くいるのではないでしょうか?

ここでは、野村克也さんのプロ入り入団~現役時代、引退後の監督時代(ヤクルト、阪神、楽天)についてを中心にまとめてみました。

記事の中で野村克也さんが残してきた数々の名言などもご紹介しています。

野村克也プロフィール

 

名前:野村克也(のむらかつや)

愛称:ノムさん

生年月日:1935年6月29日

年齢:84歳(2019年7月時点)

出身地:京都府京丹後市(旧名:竹野郡網野町)

身長:175㎝

体重:85㎏

投打:右投げ右打ち

ポジション:捕手

学歴:京都府立峯山高校

プロ入り:1954年

引退年:1980年

選手歴:南海ホークス(1954年~1977年)、ロッテオリオンズ(1978年)、西武ライオンズ(1978年~1980年)

監督歴:南海ホークス(1968年~1977年)、ヤクルトスワローズ(1990年~1998年)、阪神タイガース(1999年~2001年)、シダックス(2002年~2005年)、東北楽天ゴールデンイーグルス(2006年~2009年)

 

 

貧しい家庭で育つ

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野村克也さんの実家は、食料品店を営んでましたが、3歳で父親を亡くしています。

周辺は裕福な家庭が多かった為、自身の貧しい家庭に劣等感を持ったいたそうです。

母親も病弱で二度がんを患っており、野村克也さんは小学1年生のころから、新聞配達やアイスキャンディー売りなどのアルバイトをしていました。

野球と出会う

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貧乏な生活から脱却するために、歌手になるためにコーラス部に所属したり、俳優になるために映画館通いをしていたこともありました。

当時の野球界の大スター:川上哲治さん、大下弘さん、などへの憧れから、野球選手を志したそうです。

中学2年生で野球部に入部し、すぐに4番・捕手に抜擢され、3年生の時にはチームは奥丹後地方予選で優勝し、京都府大会でも4強に入るほどの活躍を見せています。

母親から中学校卒業後には就職するように言われますが、兄の計らいにより、京都府立峯山高校に進学することができました。

峯山高校は弱小チームで、1回戦負けが常で、野村克也さんもこの頃は無名の選手でした。

卒業後の進路については、当時の野球部の顧問がプロ球団の監督に手当たり次第に野村克也さんの推薦状を送ってくれたそうで、返事をくれたのは、鶴岡一人監督(当時、南海監督)だけで、実際に見に来てくれたそうです。(鶴岡監督が見守った試合で、野村克也さんはランニングホームランを放っています

 

テスト生としてプロ入り

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野村克也さんは、1954年に契約金0円のテスト生として南海ホークスに入団しました。

当時は、巨人ファンの野村克也さんでしたが、捕手層の厚い巨人ではなく、あえて捕手層が薄く高齢化が進んでいた南海の方がレギュラーになれると考えて、入団を決めています。

しかし、肩が弱かったため、なかなかレギュラーにはなれませんでした。

そこで、当時はタブーだったウエイトトレーニングで体を鍛え、3年目の1956年の春季キャンプで1軍に抜擢され、以後正捕手に定着しています。

「野村ID野球」の基礎が誕生

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野村克也さんは、打撃不振に陥った時に読んだ本にあった「投手は球種によりモーション時にクセを見せる」という一文から、投手の癖を研究するようになりました。

これにより、打撃力が格段に向上しますが、稲尾和久投手だけは攻略できませんでした。

その為、6ミリカメラで稲尾和久投手を撮影し、徹底的に研究しました。

これが、後の「野村ID野球」の基礎になりました。

 

戦後初の三冠王に輝く

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野村克也さんは、1957年に本塁打王のタイトルを獲得。

その後、毎年のようにタイトルを獲得するようになり、南海ホークスの黄金時代に大きく貢献しています。

1962年にはシーズン44本塁打(当時のパリーグ記録を更新)を記録し、1963年にはシーズン52本塁打を放ち、当時のプロ野球記録を樹立しています。(※翌年に王貞治選手がシーズン55本塁打を放ち、記録を更新し、これは長らくプロ野球記録になりました)

その後、1965年には戦後初の三冠王(首位打者、打点王、本塁打王)に輝きました。捕手で三冠王になったのは、プロ野球史上野村克也さんだけです)

「月見草」が代名詞となる

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当時のプロ野球は、巨人を中心としたセ・リーグが圧倒的な人気を誇っており、「ON(王貞治、長嶋茂雄)」ばかり注目され、野村克也さんは目立たない存在でした。

1975年5月22日、野村克也さんが史上2人目の600号本塁打を達成したときの観客はわずか7000人でした。

試合後のインタビューで野村克也さんは、

自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが、花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある

と話し、以後、「野村克也=月見草」のイメージが定着しました。

ささやき戦術とは?

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野村克也さんは捕手として守備についている時に、相手打者に何かしらささやくことで集中力を奪うことを得意としていました。

当初は、「次は頭にいくで」「今度こそ頭だぞ」「当たったら痛いだろう」などと脅しの言葉だったそうですが、その後は相手打者の私生活などをささやく戦法に変更しています。

この「ささやき戦術」は一定の成果を上げますが、通用しなかった相手もいました。

それが、王貞治さん、長嶋茂雄さんのONコンビでした。

王貞治さんは、打席に入る前の雑談はしていましたが、いざ構えると話を全く聞かなかったそうで、長嶋茂雄さんについては、「長さん(長嶋茂雄のこと)、最近銀座に行ってるの?」と野村克也さんが話しかけると、長嶋茂雄さんは、「ノムさん(野村克也さん)、このピッチャーいいね」とかみ合わない返し方をされていたそうです。(長嶋さんが意図的にしていたのか、天然だったのかは分かりませんが)

後に達川光男選手(広島)が「ささやき戦術」を使ったことで、お株を奪われた感じになりましたが、元祖は野村克也さんだと思われます。

 

プレイング・マネージャー(選手兼監督)になる

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野村克也さんは、1968年からは選手と兼任してコーチを務めていましたが、1970年からは35歳の若さで選手兼任監督に就任しています。

このころから、「4番打者」、「捕手」、「監督」の重責を一人で担うようになりました。

監督兼任となっても打撃力は健在で、1970年には42本塁打を記録し、1972年には打点王のタイトルを獲得しています。

1977年に監督を解任されるまで「選手兼任監督」を務め、1978年に選手としてロッテオリオンズに移籍しました。

引退

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その後、野村克也さんはロッテオリオンズ→西武ライオンズとチームを渡り歩き、1980年に現役を引退しています。

獲得タイトルは、

  • 首位打者:1回 (1965年)
  • 本塁打王:9回 (1957年、1961年 ~1968年)※9回獲得、8年連続獲得はいずれもパ・リーグ記録。
  • 打点王:7回 (1962年 ~1967年、1972年)※7回獲得、6年連続獲得はいずれもパ・リーグ記録。
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1965年) ※1994年より表彰

選手時代の通算成績は、

3017試合(歴代2位)、10472打数(歴代1位)、2901安打(歴代2位)、打率.277、657本塁打(歴代2位)、1988打点

 

ヤクルト監督時代

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野村克也さんは、現役引退後はテレビやスポーツ紙で野球解説者を務めますが、1990年からヤクルトスワローズの監督に就任しています。

ID野球でチームを改革

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「(野村)ID野球」(データを重視すること)を掲げ、当時弱小チームだったヤクルトの立て直しを図ります。

しかし、1年目は成果が出ずに5位に終わってしまいました。

翌1991年には、3位に躍進し、英才教育を施した捕手の古田敦也選手が首位打者を獲得し、守備面でも大きく成長するなどの明るい話題も出始めました。

リーグ優勝・日本一を経験

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1992年にヤクルトスワローズはついにセ・リーグを制し、優勝。

しかし、日本シリーズでは西武ライオンズに敗退しています。

翌1993年もセ・リーグを制し、日本シリーズに進出。

再び、西武ライオンズと対戦し、見事リベンジを果たし、日本一に輝きました。

その後も、1995年、1998年にもリーグ優勝、日本一を経験し、ヤクルトの黄金時代を築きました。

 

阪神監督時代

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野村克也さんは、ヤクルトでの手腕を買われ、1999年から阪神タイガースの監督に就任します。

しかし、1985年以降、低迷するチームを改革することは難しく、阪神監督としては3年連続最下位で終わっています。

自身が退任するにあたり、後任の監督に熱血指導型の星野仙一さんを推薦しており、後を託すような考えもあったとも言われています。

その後、星野仙一監督が、2003年に阪神タイガースを18年ぶりのセ・リーグ優勝に導いていることから、「チームの元を作ったのは野村監督」という見方をするファンもいます。

 

楽天監督時代

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その後、野村克也さんは社会人チームの「シダックス」(2002年~2005年)で監督を務めた後、2006年からは当時発足して間もない東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任しています。

この時にすでに70歳を超えていた野村克也さんは、

このおじいちゃんに監督の要請が来ること自体プロ野球に後継者が育っていないことを意味している

とコメントしています。

ちなみに70代で監督になったのは、仰木彬さん(元近鉄、オリックス監督)、野村克也さんの2人だけです。

また試合後の取材で話す「野村語録(ぼやき)」が話題になり、特に田中将大投手(現:ヤンキース)については、「マー君、神の子、不思議な子」などのコメントを残しており、メディアを賑わせました。

2009年シーズンに楽天は球団創設初のAクラス入りを果たし、野村克也さんも監督としては、1998年(ヤクルトで優勝)以来して以来のものでした。

退任決定の際に野村克也さんは、

人生に疲れた。クビと言われ、どっと疲れが出てきた。ユニホーム姿もいよいよ秒読みだが、やっぱりオレは『元南海』がいい

と口にしています。

監督としての通算戦績(通算24年)は、

3204試合、1565勝1563敗、76引き分け、勝率.5003、Aクラス12回、Bクラス12回

その後、楽天は2013年に星野仙一監督の元にパ・リーグ優勝、日本一を果たしています。

阪神と同じように「野村ー星野」のラインが来るのは偶然でしょうか?

※阪神は、野村監督→星野監督(リーグ優勝)、楽天は、野村監督→ブラウン監督→星野監督(リーグ優勝、日本一)

ブラウン監督(広島、楽天)は、判定に抗議する際に、ベースを放り投げるパフォーマンスが話題になりました。

 

野村克也さんの現在は?

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楽天の監督を退任した後の2010年からは、サンケイスポーツの野球評論家に復帰しています。

ノムさん引退後の映像

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ヤクルト球団設立50周年を記念『Swallows DREAM GAME』にて代打で打席に立つ

野村克也!代打!笑顔でバッターボックスへ!ノムさんはまだまだ元気です! スワローズレジェンド

オープンハウス presents Swallows DREAM GAME | 東京ヤクルトスワローズ

https://www.yakult-swallows.co.jp/

 

現在は歩行が不安定のため、車いすを使用していますが、不定期にテレビ・ラジオにも出演しています。

健康面が心配されますが、野村克也さん本人は「食欲もあり元気」と話しています。

是非とも元気に長生きして欲しいと思います。

野村克也

野村克也オフィシャルサイト:https://nomura-katsuya.com/

日本プロ野球名球会公式ページ:http://meikyu-kai.org/member/batter/katsuya_nomura.html