原辰徳の選手・監督時代の成績や年俸は?名言、家族(父親、長男、甥)についてまとめてみた!

プロ野球:読売ジャイアンツ(巨人)の原辰徳監督。

GM(ゼネラルマネージャー)を兼任する全権監督として、2019年に3度目の巨人監督に復帰し、今シーズン5年ぶりのセ・リーグ優勝を果たしました。

今回は原辰徳さんの選手・監督時代と、家族(父親、長男、甥)についても書いてみました。

原辰徳プロフィール

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名前:原辰徳(はらたつのり)

生年月日:1958年7月22日

年齢:61歳(2019年10月時点)

出身地:神奈川県相模原市(生まれは福岡県大牟田市)

身長:181㎝

体重:84㎏

投打:右投げ右打ち

ポジション:内野手三塁手、二塁手、一塁手)

プロ入り:1980年ドラフト1位

引退年:1995年

選手歴:東海大学相模高校→東海大学→読売ジャイアンツ(1981年~1995年)

監督歴:第1次(2001年~2003年)、第2次(2006年~2015年)、第3次(2019年~)

 ※いずれも読売ジャイアンツ

 WBC日本代表(2009年)

プロ入り前

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福岡県大牟田市で生まれた原辰徳さん。

小学校2年生の時に、父親の原貢さんの東海大学相模高校野球部監督就任のために、神奈川県厚木市に転居。

その後、1974年に東海大学相模高校に入学し、父親が監督を務める野球部に入部し、親子鷹として注目されます。

1年生のころから三塁手のレギュラーとして活躍し、夏の甲子園に3年連続出場。1975年の春の甲子園にも出場し、この時は準優勝しています。

イケメンだったこともあり、女性ファンが急増し、甲子園の神奈川県予選には球場が満員になるほどの「原フィーバ」が起こるほどでした。

一方、監督の父親との関係ですが、グラウンドでは親子の関係を捨て、あくまで「監督と選手」を貫き、時には鉄拳制裁も辞さないほどだったそうです。

高校通算43本塁打を放ち、その後東海大学に入学。

大学野球でも活躍し、「長嶋茂雄の再来」とも言われました。

実力もさることながら、イケメンなルックスもあり、女性ファンも多かったそうです。

その後、1980年のドラフト会議でも4球団強豪(巨人、広島、大洋<現DeNA>、日本ハム)の末に巨人が交渉権を獲得し、入団しています。

次に原辰徳さんの父親である原貢さんに触れてみたいと思います。

原貢(原辰徳の父親)について

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名前:原貢(はらみつぐ)

生年月日:1936年3月30日

没年月日:2014年5月29日(78歳没)

出身地:佐賀県吉野ヶ里町

選手歴:佐賀県立鳥栖工業高校→立命館大学(中退)→東洋高圧大牟田(現:三井化学)

監督歴:福岡県立三池高校→東海大学相模高校→東海大学

著名な家族:原辰徳(息子)、菅野智之(孫)

経歴

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原貢さんは、アマチュア球界ではけっこう有名な監督です。

福岡県立福岡県立三池高校に就任すると、無名校を甲子園初出場で優勝(1965年)に導き、「三池工フィーバー

を起こします。

その実績を買われ、東海大学から招聘され、1966年から東海大学相模高校の野球部監督に就任。

東海大相模高校を神奈川県屈指の強豪校にし、甲子園常連校に育て上げます。

息子の原辰徳さんにも鉄拳制裁を浴びせるなどの厳しい指導で知られ、グラウンドでは親子関係を断ち切っています。

これは他の選手へのけじめと言えば良いでしょうか。(あいつは監督の息子だからひいきされてると周りに思われると、チームがまとまらなくなるので)

原辰徳さんの東海大学進学と共に、東海大学野球部監督に就任。

首都大学リーグ7連覇を達成する偉業を残しています。

その後、原辰徳さんが巨人入りすると、1980年に東海大相模高校の監督に復帰、1984年には別の東海大系列高校の監督に就任し、1990年には東海大学の監督に復帰し、6度のリーグ優に導いています。

1996年に東海大学の監督を退任すると、再び東海大系列校の監督に就任しています。

守備に重点を置いた厳しい指導を行う一方、1970年代の指導者にしては珍しく練習中の水分補給を認めたりと、先進的な考え方を持っていた監督でもありました。(当時は水分補給はダメだと言われていました)

2014年5月4日に心筋梗塞で入院し、同年5月29日に心不全のために亡くなっています。

没後に、東海大学から東海大学野球部名誉総監督の称号が送られています。

 

原辰徳の現役時代は?

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原辰徳さんが入団したころには、三塁手は中畑清さん(元横浜DeNAベイスターズ監督、「絶好調」でお馴染みですね)がレギュラーとして君臨していました。

その為に、1981年の開幕戦では6番二塁手で初出場しています。

しかし、その後中畑清さんが故障し、三塁手に固定され、打率.268、22本塁打、67打点の成績を収め、新人王を獲得しています。

1982年には本塁打王を33本に伸ばし、1983年には打率3割を記録。

打点王、最多勝利打点を獲得して巨人の優勝に貢献し、MVPに選ばれています。

1986年に津田恒美投手(広島)のストレートをファウルした際に、左手首の有鉤骨を骨折、残り試合の欠場を余儀なくされています。

本人も「事実上、バッター原辰徳は、この骨折の時に終わりました」と発言するほど、後の成績に大きな影響を与えています。

1987年、1988年に2年連続30本塁打を記録、1989年には9年連続20本塁打を記録。

1990年には一時、引退が公示されましたが、打率3割を記録し、チームの2年連続優勝に貢献。

1991年には入団以来11年連続20本塁打を達成しますが、1992年に一塁手にコンバートされ、ファンの間に不安が広がります。(以前に外野手に挑戦した際に調子を落としたのではないかと言われました)

1993年には三塁手に復帰。

5月2日には4番出場が通算1000試合に到達しています。

しかし、複数個所の故障に悩まされ打撃不振に陥り、プロ入り以来初の規定打席未達に終わりました。

その後、1995年に現役引退を表明しています。

当時の人気は?

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高校、大学と人気のあった原辰徳さんですが、現役時代は偉大な先輩である長嶋茂雄さん、王貞治さんなどと比べられ、「勝負弱い」とバッシングを受けたことも多々あるそうです。

選手としては過小評価されていた感じが否めませんが、生え抜きの選手としてある程度の人気はあったと思います。

津田恒美投手との勝負での左手首の有鉤骨骨折以後、思うようにバットが振れなくなったと後年明かしています。

ただ、津田恒美投手との勝負については、「彼との真っ向勝負は楽しかった」と話しています。

原辰徳 巨人監督時代

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原辰徳さんは、現役時代よりも監督になってから評価を上げたと言っても良いかもしれません。

次からは監督就任後について見て行きたいと思います。

第1次巨人監督時代

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原辰徳さんは現役引退後の1996年から1999年まで野球評論家、解説者、キャスターなどを務めています。

その後、1999年~2000年に野手総合コーチ、ヘッドコーチとして巨人の指導者としてカムバック。

長嶋茂雄監督の元で帝王学を学び、2001年オフから正式に監督に就任。

2002年には監督就任初年度にして、リーグ優勝、初の日本一を経験。

しかし、2003年には4番の松井秀喜選手のヤンキース移籍や、主力にケガが続出し、3位に転落。

球団との確執もあり、オフに監督を辞任しています。

第2次巨人監督時代

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一旦は、巨人の監督から身を引いた原辰徳さんですが、2005年10月5日再び、巨人の監督に就任。

2006年こそ4位に終わりますが2007年、2008年、2009年、2012年、2013年、2014年と6回のリーグ優勝(2009年、2012年は日本一)と巨人を常勝軍団に導いています。

試合では、自己犠牲、実力至上主義、勝利至上主義を貫き、主力選手でも送りバントをさせています。

調子が悪ければ、主力選手でも2軍に行って調整させることを行っており、変なひいきはしていないように思えます。

うまくアメとムチを使い分けていたのでしょう。

これは自身が高校時代に、監督であった父親から一切ひいきされなかったことに由来しているのでしょうか?

原辰徳さんは選手時代よりも、監督になって才能を発揮したタイプかもしれませんね。

2015年に監督を退任しますが、またまた出番が回ってきます。

第3次巨人監督時代

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2018年10月23日に、3度目の巨人監督に就任。

巨人で3度監督を務めたのは史上初で、他球団でも代理や代行を除けば天知俊一監督(中日)と吉田義男監督(阪神)の2人しか前例がありません。

そして2019年9月21日に巨人は5年ぶりのセ・リーグ優勝を果たしています。

監督時代の現在までの通算成績(13年)は、

1858試合、1024勝776敗、58引分
勝率.561
Aクラス12回、Bクラス1回

そのうち、
セ・リーグ優勝:8回(2002年、2007年~2009年、2012年~2014年、2019年)
日本一:3回(2002年、2009年、2012年)

となっています。

優勝回数もですが、Bクラスが1回しかないのは凄いですね。

 

WBC(2009年)監督として世界一

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原辰徳さんと言えば、第2回WBC(ワールドベースボールクラシック)で日本を優勝に導いています。(通称:侍ジャパン)

球界の精鋭を選び臨みましたが、この時はイチロー選手(当時)が極度のスランプで「あんなに打てないイチローを見たことがない」と思った人もいたでしょう。

現在の侍ジャパン監督である稲葉篤紀さんも、この大会にはチーム最年長選手として出場しています。

イチロー選手が決勝戦でタイムリーヒットを打ったのを鮮明に覚えている方もいるかもしれませんが、イチロー選手自身も原辰徳監督に、自身をスタメンからはずしてもらうことを言うつもりだったそうです。(実際言ったのかは分かりませんが)

ですが、原辰徳さんは「イチローをはずす気はなかった。彼が打てれば皆が乗れる」と考え、最後までイチロー選手の復活を信じていたそうです。

この大会は選手ならず、ファンの方の間でも忘れられない大会になりましたよね。

 

原辰徳 名言(選手、監督時代)

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原辰徳さんの名言を選手、監督時代問わず集めてみましたので、一部をご紹介します。

正々堂々と世界の強者と戦って勝ち抜くことができた。
覚悟と潔さを持って「日本力(にほんぢから)」を見せ付けた。

私にとってのジャイアンツ、ジャイアンツにとっての彼(松井)の位置づけ。
お互いに築き上げてきたものがある。これからも築き上げていかなければならない。

若い力はジャイアンツの宝。

ジャイアンツ愛。

 勝負に近道なし、勝負に失望なし、勝負に待ったなし。

皆さんに感謝。私の力は数%ですから。

 小さい頃、野球選手になりたい、ジャイアンツに入りたい。その夢を持って頑張りました。

組織の和というのは、競争原理が働く実力主義でないと保てないんです。レギュラーを獲得するのに遠慮なんかしていられません。

 

原辰徳 年俸は?(選手、監督時代)

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まずは原辰徳さんの選手時代の年俸推移です。

1981年1年目23歳巨人840万円
1982年2年目24歳巨人1440万円
1983年3年目25歳巨人2700万円
1984年4年目26歳巨人4300万円
1985年5年目27歳巨人3870万円
1986年6年目28歳巨人3870万円
1987年7年目29歳巨人3870万円
1988年8年目30歳巨人6000万円
1989年9年目31歳巨人6600万円
1990年10年目32歳巨人8000万円
1991年11年目33歳巨人9400万円
1992年12年目34歳巨人9900万円
1993年13年目35歳巨人1億2500万円
1994年14年目36歳巨人1億1500万円
1995年15年目37歳巨人1億1500万円
合計9億6290万円

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続いて監督時代ですが、今年2019年の年俸は3億円(推定)と言われていますが、真偽のほどは分かりません。

ちなみに2019年の他球団監督の年俸(推定)と比較すると、

西武:辻発彦 7000万円
ソフトバンク:工藤公康 1億円
日本ハム:栗山英樹 1億1000万円
オリックス:西村徳文 6000万円
ロッテ:井口資仁 1億円
楽天: 平石洋介 5000万円
広島:緒方孝市 8000万円
ヤクルト:小川淳司 8000万円
巨人:原辰徳 3億円
横浜DeNA:ラミレス 9000万円
中日: 与田剛 1億円
阪神:矢野燿大 1億円
と明らかに他球団監督よりも多いです。(実績とか球団の経済事情、契約年数も関係しています)
それにしても工藤監督が1億円は少ない気がします(もっともらってるでしょう)

どう考えても、選手時代よりも良いです。

確か、2019年から3年契約だったはずです。

以前の監督時代の年俸を調べて見ましたが、はっきりとは分かりませんしたが、実績から考えると1億円を下回ったことはなさそうです。(最低2億円かもしれません)

 

原嘉宏(原辰徳の長男)について

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原嘉宏(はらよしひろ)さんですが、1988年3月25日生まれの31歳(2019年10月時点)。

幼稚園から慶応義塾に通い、大学も慶応義塾大学に進みますが、中退しています。

野球を始めましたが、あまり熱中することはなかったようです。

それからしばらくニート生活をしていたとも言われており、見かねた原辰徳さんがコネを使ってフジテレビに入社させようとしましたが、先方に断られてしまいます。

その後、AKS(AKB48の運営会社)で勤務しますが、遅刻や欠勤が多かったことからクビになってしまったようです。

現在は経営者?

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原嘉宏さんはASKをクビになったあと、自身の仲間たちと共にワインの輸入などを手掛ける会社「株式会社MAMIRO」を起業し、取締役となりました。

しかしこの会社は父親である原辰徳さんが「息子に自立して欲しい」との気持ちから起業資金を出資したとも言われています。

その後、原嘉宏さんは麻布十番に創作フレンチレストラン「嘉(YOSHI)」をオープンさせています。2015年12月12日にオープンしたこのお店は、箸で食べる割烹フレンチがコンセプトだそうです。

現在もこの店は営業しており、有名人のお客さんも店に来るそうです。

 

菅野智之(原辰徳の甥)について

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名前:菅野智之(すがのともゆき)

生年月日:1989年10月11日

年齢:30歳(執筆時)

出身地:神奈川県相模原市南区

身長:186㎝

体重:95㎏

投打:右投げ右打ち

ポジション:投手

プロ入り:2012年ドラフト1位

経歴:東海大相模高校→東海大学→読売ジャイアンツ

原辰徳さんの甥なのに、なんで苗字が「菅野」なんだと思う方がいるかもしれませんが、それは菅野智之投手の母親が原辰徳さんの妹のためで(母方の伯父と甥)、ちなみに菅野智之投手の父親も東海大学相模高校野球部出身だそうです。

原辰徳さんとほぼ同じ経歴を辿っている菅野智之投手ですが、現在は「監督と選手」の間柄です。

高校時代は甲子園出場経験はなく、大学進学後に頭角を現し、1年の浪人生活(2011年日本ハムにドラフト1位指名されるも入団拒否)の後に巨人に入団。

現在は巨人のエースとしてチームの顔でもあります。

2017年、2018年と2年連続沢村栄治賞を受賞している球界を代表する投手に成長しますが、2019年シーズンは調子を落としていますが、菅野智之投手にはメジャリーグ挑戦という夢があるそうです。

しかし、原辰徳さんが監督をやっている間は無理だと言われており、ポスティングシステム(入札制度)を巨人は認めていないため、海外FA権(菅野投手の場合、短で2021年オフに習得できる)で移籍するしか方法はなさそうです。

巨人からメジャリーグに移籍した松井秀喜さん、上原浩治さんも海外FA権習得まで待たざるを得なかったですからね。

その時に、菅野智之投手は32歳なので、果たしてその時までにメジャリーグへの夢を持ちづづけられるかでしょうね。

他球団の例ですが、黒田博樹投手(当時)が広島からドジャースに移籍したのは32歳の時で、そこから7年間でメジャリーグ79勝(日本人2位)を挙げているので、菅野智之投手も不可能ではない気がします。

野手よりも投手の方が活躍できると言われているメジャリーグなので、挑戦してみるのもありだとは思いますし、則本昂大投手(楽天)のようにメジャー挑戦を諦め、国内でプレーすることに専念することもできますが、果たして菅野投手はどうするのか注目です。

 

原辰徳の目標は?

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原辰徳さんの目標の一つである、5年ぶりのセ・リーグ優勝は達成されました。

次は、日本一といったところでしょうか?

長期的な面で言えば、巨人を常勝軍団にするといったところでしょうかね。

以上、ここまでお付き合いありがとうございました。

原辰徳

読売巨人軍公式サイト(原辰徳):https://www.giants.jp/G/player/prof_2782.html