「ミスタージャイアンツ」こと長嶋茂雄さん。
記録にも記憶にも残る選手・監督でもありました。
近年は脳梗塞や胆石を患い、入退院を繰り替えていると言われており健康状態が心配されています。
そんな長嶋茂雄さんの選手・監督時代、現在についてまとめてみました。
長嶋茂雄プロフィール
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名前:長嶋茂雄(ながしましげお)
愛称:チョーさん、ミスタージャイアンツ、ミスタープロ野球
生年月日:1936年2月20日
年齢:83歳(2019年8月時点)
出身地:千葉県佐倉市
身長:178㎝
体重:76㎏
学歴:千葉県立佐倉第一高校(現:千葉県立佐倉高校)→立教大学
ポジション:三塁手
投打:右投げ右打ち
プロ入り:1958年
引退年:1974年
選手歴:読売ジャイアンツ(1958年~1974年)
監督歴:読売ジャイアンツ(1974年~1980年、1993年~2001年)
プロ入りまで
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長嶋茂雄さんは、兄1人、姉2人の末っ子として生まれ、父親は役場の収入役・助役をしていました。
野球を始めたのは、小学校4年生の時で藤村富美男選手(大阪タイガース)に憧れていたことから、関東出身者には珍しく阪神ファンだったそうです。
中学校では野球部に入部し、このころからプロ野球選手を志していました。
高校は地元の名門:千葉県立佐倉第一高等学校(現・千葉県立佐倉高等学校)に進学し、京成電鉄で電車通学していました。
高校2年生の時から4番を務めましたが、ほぼ無名の存在でした。
高校最後の年に南関東大会に千葉県代表として出場し、1回戦で敗れたものの、本塁打を放ち、野球関係者から注目されます。
実は長嶋茂雄さんには読売ジャイアンツからプロ入りのオファーがあったそうですが、父親が進学を理由に勝手に断ってしまいました。
後に行われた立教大学野球部推薦入学のセレクションで、参加者80人中2位のという順位で合格し、立教大学に進学しました。
立教大学から巨人へ
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1954年に立教大学に進学した長嶋茂雄さんでしたが、6月に父親が急死。
大学を中退してプロ入りも考えましたが、母親の反対もあり断念しています。
その後、監督に目をかけられ猛練習を重ね、三塁手に定着。
東京六大学リーグ戦通算96試合に出場し、打率.286(304打数87安打)、8本塁打、39打点、22盗塁の成績を残し、プロ注目の選手に成長しました。
その後、読売ジャイアンツ(巨人)に入団を決め、年俸200万円、背番号「3」で契約金は当時の最高額の1800万円でした。
巨人選手時代
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長嶋茂雄さんは、1958年のルーキーイヤーから出場し、シーズン後半戦からは4番を務め、この年の巨人のリーグ優勝に貢献しています。
最終的には、本塁打王(29本)、打点王(92打点)のタイトルを獲得しています。
1959年に行われた天覧試合(昭和天皇、光淳皇后が観戦)では、同点の9回裏にサヨナラ本塁打を放ち、勝負強さを日本中に知られるようになりました。
その後は巨人の中心選手として「V9時代(1965年~1973年まで9年連続セ・リーグ優勝)」を牽引し、1974年に現役引退を表明。
後に行われた引退セレモニーでの、「我が巨人軍は永久に不滅です!」は、有名な名言になりました。
主な獲得タイトルは、
- 首位打者:6回 (1959年 – 1961年、1963年、1966年、1971年)※6回は右打者記録、セ・リーグ記録。3年連続は右打者タイ記録、セ・リーグタイ記録。
- 本塁打王:2回 (1958年、1961年)
- 打点王:5回 (1958年、1963年、1968年 – 1970年)
- 最多出塁数:3回(1959年 – 1961年)
- 最多安打:10回 (1958年 – 1963年、1966年、1968年 – 1969年、1971年)※6年連続・通算10回は共に日本記録。当時連盟表彰なし。
現役時代の通算成績(17年)は、
2186試合、8094打数、2471安打、打率.305、444本塁打、1522打点
第1次巨人監督時代
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長嶋茂雄さんは、1974年11月21日に巨人の監督に就任。
就任1年目の1975年は最下位に終わりますが、1976年にはリーグ優勝を果たしますが、日本シリーズで敗退しています。
1977年もリーグ優勝(V2)を達成しますが、またしても日本シリーズで敗退。
その後は優勝から遠ざかり、1980年シーズンを終了前に監督を退任しました。
退任後は?
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巨人の監督退任後は、キューバ文化視察、韓国野球委員会での講演、中国野球での指導、ワールドシリーズ観戦などの「スポーツ外交官」的な活動をしています。
このころから、バラエティ番組への出演が増え、「面白いおじさん」のイメージが定着。
巨人以外の球団から監督のオファーもあったそうですが、全て断っています。
第2次巨人監督時代
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長嶋茂雄さんは、1992年10月12日に巨人の監督に復帰。
新しい背番号は「33」で、就任直後のドラフト会議では、星稜高校の松井秀喜選手を引き当てて入団させることに成功しています。
復帰1年目の1993年は3位に終わりますが、オフに中日から落合博満選手を獲得。
翌1994年に同率首位でならんだ中日との直接対決に勝利し、リーグ優勝を達成。
これはプロ野球史上屈指の名勝負となり、「10.8決戦」と呼ばれています。
日本シリーズでも勝利を納め、監督として初の日本一に輝いています。
1995年は3位に終わりますが、1996年は首位に最大11.5ゲーム差をつけられますが、逆転優勝を果たし、「メークドラマ」と呼ばれました。
2000年にもリーグ優勝を経験し、日本シリーズではダイエーホークスの王貞治監督(当時)との初の「ON対決」が実現しますが、勝利を納め日本一を達成しています。
翌2001年に監督を退任し、終身名誉監督への就任が発表されています。
「長嶋さんにとって野球とは何ですか?」と聞かれた長嶋茂雄さんは、「野球というスポーツは人生そのものです」と答えています。
監督時代の通算成績は、
1982試合、1034勝889敗、59引分、勝率.538、Aクラス12回、Bクラス3回
国民栄誉賞を受賞
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巨人の監督退任後は、アテネ五輪日本代表監督に就任しますが、2004年3月4日に脳梗塞で倒れ入院。
現地が指揮で取れないとの判断から、中畑清ヘッドコーチが代行で指揮を取りますが、チームは3位に終わっています。
2013年4月16日に国民栄誉賞を愛弟子の松井秀喜さんと同時に受賞。
その後、千葉県県民栄誉賞、佐倉市民栄誉賞を受賞し、後者の会場となった佐倉市岩名運動公園第一野球場は、長嶋茂雄記念岩名球場と改名されています。
長嶋茂雄の現在は?
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現在の長嶋茂雄さんですが、一時期胆石で入院したこともあり重病説も流れましたが、2019年には巨人戦を観戦に訪れるなど元気な姿も見せています。
脳梗塞の後遺症の為、右半身の麻痺や言語障害が残っていますが、リハビリを続けた甲斐もあり、以前よりも回復しているそうです。
ただ、長嶋茂雄さんもすでに80歳を超えているので、脳梗塞の再発や他の病気にかかってしまうリスクがあるため、現在は慎重に経過観察をしているようです。
記憶にも記録にも残る長嶋茂雄さんですが、健康に留意して長生きしていほしいと思います。
以上、ここまでお付き合いありがとうございました。
長嶋茂雄
日本プロ野球名球会ホームページ:https://meikyu-kai.org/member/batter/shigeo_nagashima.html
日本野球機構個人成績(長嶋茂雄):http://npb.jp/bis/players/81983806.html