その音楽性、「誰にも似ない」「何処にも属さない」というバンドスタイル、メディアをほとんど利用しない強気な姿勢、斬新なビジュアル、バンドブームの火付け役となった「BOØWY(ボウイ)」。
日本のロックシーンに変革をもたらしつつもたった6年というバンドの軌跡を追うことにしましょう。
BOØWY(ボウイ)とは?
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「BOØWY(ボウイ)」とは、そのスタイルが後の日本のロックに大きな影響を与えたバンドです。メディアでたまに「BOΦWY」と記されることがありますが実は間違いです。
正しいグループ名は、3文字目がギリシャ文字の「Φ」(ファイ)ではなく「Ø」(ストローク符号を付したO)とされます。
メンバーは?
解散時の最終のメンバーは以下のようになります。
ボーカル(リーダー):氷室京介
ギター・コーラス:布袋寅泰
ベース:松井恒松(現在は「常松」に名前表記を変更)
ドラムス:高橋まこと
人気を集めたポイントは
- 8ビートを軸にしてポップさとシャープでエッジの効いたロックサウンド
- 近未来的で洗礼されたステージ衣装
- 逆立てたヘアースタイルというファッション的に斬新なビジュアル
主にこの3つの要素により人気を集めたのだと考察しています。
その後の日本ロック界に多大な影響を与える
日本でも屈指のロックバンドである「LUNA SEA」や「GLAY」といったバンドのメンバーもファンを公言しており、その影響力が確かであることが証明されています。
BOØWY 結成前
結成前。メンバーの中学、高校時代とは
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氷室京介さん、松井恒松さん
主要メンバーのうち、氷室京介さん、松井恒松さん、布袋寅泰さんが群馬県高崎市出身です。そのうち中学も同じだった「氷室」さんと「松井」さんは17歳で夭折した詩人・画家である「山田 かまち」さんと共にバンドを組んだことから音楽人生が始まったようです。
高校生となった「氷室」さんと「松井」さんは初期メンバーでもある「諸星アツシ」さんと『デスペナルティ』というバンドを結成。1979年「EastWestコンテスト」に入賞し、その後、音楽事務所「ビーイング」にスカウトされ、上京します。
こちらは「氷室」さんと「松井」さんが所属していたデスペナルティの音源動画となります。
布袋寅泰さん
一方、「布袋」さんは高校時代にギターを弾き始め、「BLUE FILM」、「ジギーリギー」、「フライアウェイ」と様々なバンドを組み活動していました。そのバンド活動の中で後にBOØWYのマネージャーとなる「土屋浩」さん、初期メンバーとなる「深沢和明」さんと出会います。
「フライアウェイ」時代に 「A-ROCK本選会」へ出場し、アイディア賞を獲得。それがきっかけで「布袋」さんと「土屋」さんは上京します。
高校時代からスターだった?
同郷で後輩バンドである「BUCK-TICK」の「ヤガミトール」さんによると、「“デスペナルティ”と”BLUE FILM”が人気を二分しており、両バンドが対バンを行うと500人規模のホールが埋まるほどで、追っかけまで存在していた」ということです。
「氷室」さんと「布袋」さんは同郷のライバル同士でしたが、当時はそれほど面識がなかったようです。当時のことを「布袋」さんが振り返った内容からは「「氷室」さんは「高校時代、極道のイメージが強くて帝王のような存在として広く知られていたが、歌は上手く歌唱力はプロ級だった」」と語っていたそうです。
1つのライブが運命を変えた
1979年に上京した年に「氷室」さんと「松井」さんを待っていたのは悲運な出来事でした。「デスペナルティ」は演奏能力が不足しているということで強制的に解散させられてしまったそうです。
バンド解散後の二人は…
その後「氷室」さんはレコード会社の意向により「スピニッヂ・パワー」のボーカルとしてデビューします。
一方「松井」さんは現在は音楽プロデューサーとして有名な「織田哲郎」さんが率いる「織田哲郎&9th IMAGE」のベーシストとしてプロデビューしました。
こちらは「織田哲郎&9th IMAGE」の当時の楽曲です。
「氷室」、「布袋」との再開
しかし「氷室」さんはバンドで演奏される音楽性の違いから脱退を決めます。当時付き合っていた彼女とも別れたことから、音楽の道を諦め、帰郷する決意をしたのでした。
「氷室」さんは最後の思い出のつもりで立ち寄った1980年7月の日比谷野外音楽堂「RCサクセション」のライブを見に行きます。
そのライブで再度音楽への情熱が復活。群馬にいたときのライバルだった「布袋」さんへ連絡を入れ、「六本木アマンド」の前で再会したそうです。
当時のことについて布袋さんは…
併せて「氷室」さんのファッションが群馬で見ていたの硬派な印象からニュー・ウェイブ風へ変化したことに驚いたとのことです。
徐々に集結するメンバー
バンドを開始するにあたり盟友であった「深沢」さんと「諸星」さんを誘いを受け、加入。時を同じくしてバンドが解散した「松井」さんが、「織田」さんから「氷室」さんの新バンドを結成の話を聞き、連絡し、同年の9月に加入します。
下積みの開始。バイトに明け暮れる日々
バンド結成後、下積みを介したメンバー。
「松井」さんはゲームセンターで働いていた際、店長に「髪立ててメイクしてバイトに来るのやめてくれない?」と注意されたことがあるそうです。阿佐ヶ谷の「ミント」というカフェバーのマスターになった時期もありました。
しかしお店がバンドの連絡先となっていたためにファンに場所を特定され、居座われてしまいました。他のお客さんが入れなくなり、売り上げが出なくて閉店してしまったという逸話があります。
最終的にメンバーとなる「高橋」さんもはマネキン運びのアルバイトをしていたそうです。優秀な勤務態度が評判で企業から正社員への推薦を貰うほどでした。
動画はBOØWY(当時は暴威)の結成当時のデモ音源。
真面目に勤める二人に対して、氷室と布袋は…
「氷室」さんもいろいろなアルバイトをしていたそうです。
英会話教材のセールスマンでは営業成績がとても優秀だったそうです。しかし車の誘導のアルバイトでは車をぶつけ、パチンコ屋の店員としては台を壊し、ゲームセンターでは出勤3日目から先輩とうまくいかず、1日中ゲームをして遊んでいたという豪快なお話があります。
「布袋」さんは喫茶店のアルバイトの面接に行った際、「背が高すぎる」という理由で不採用になったことです。併せてかなりの極貧生活をしていたそうです。
実際「氷室」さんと「布袋」さんは安定して仕事を続けることができず、ヒモのような生活を送っていたようです。バンドの活動資金は「松井」さんや「高橋」さんが稼いだアルバイト代や、ファン参加型として集めた打ち上げ代などで補っていたそうである。
結成当初6人グループだったBOØWY(「暴威」)
1981年にドラム以外のメンバーが集まった「BOØWY」。
バンドとしての活動をするために「氷室」さんが以前所属し、良き相談相手だった「スピニッヂ・パワー」のドラムだった「木村マモル」さんがサポートとして加入する形で本格的な活動を開始します。
その際、バンド名を当時の所属事務所「ビーイング」で副社長兼サウンドプロデューサーをしていた「月光恵亮」さんから、イギリスのハードロックバンド「ガール」に対抗して男ばかりのバンドだから「ボーイ」だろうということで、当て字で「暴威」と命名されました。
もっとダサい名前を付けられそうになった
社長の「長戸大幸」からは、人気のバンド「横浜銀蠅」に近い感じということでバンドメンバーの半数以上が生まれた「群馬県」と合わせて「群馬暴威」という名を提案されました。
しかしメンバーはこれに猛反対。即ボツとなりました。笑
ちなみにデヴィッド・ボウイからの影響という話もありましたがそれは否定されています。
動画はBOØWY(当時は暴威)の結成当時のデモ音源。
上記の動画のように、日本のバンドとしては桁外れに海賊版の数が多いことでBOØWYは有名です。
説によりますと大半の公演について海賊版が存在すると言う話もあります。初期の頃は、それを逆手に取り、営業戦略としてライブの録音、録画を黙認していました。
デビューライブは客13人
同年の5月からバンド「マライア」の「渡辺モリオ」さんをプロデューサーに迎え、 最初のアルバム「MORAL」のレコーディングを開始します。
11日に 「新宿LOFT」でデビューライブ「暴威LOFT FIRST LIVE」を行いました。しかしオーディエンスは男性9人と女性4人の13人だけという寂しいデビューとなりました。
最後のピースがそろう。
「暴威LOFT FIRST LIVE」には当時様々なバンドでドラムとして活躍していた「高橋まこと」さんがいました。
後日、「高橋」さんとメンバーでスタジオセッションを行い、正式加入する形となります。サポートの木村さんはここで脱退ということになりました。
高橋さんは初ライブ終演後に楽屋を訪れた思い出として「怖そうな氷室、デカい布袋、寡黙な松井。とにかくおっかない連中だなという印象だった」と思ったそうです。
「高橋」さんと他の5人と初めて「IMAGE DOWN」を演奏した際、演奏開始のカウントがあまりにも大声だった為、「松井」さんが吹いてしまい、演奏中断となってしまったというエピソードもあるそうです。
完成した1枚目のアルバム。デビューへ
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1982年1月28日にバンド名を「BOØWY」に改名し、3月21日に「ビクター音楽産業」より最初のアルバム「MORAL」が発売され、レコードデビューを果たしました。
新体制でのスタート
同年9月9日のライブ「CHANGE COSTUME」から楽曲をパンク色の強いものからニューウェイブを意識したメロディアスものへと変化させます。併せて衣装も黒ずくめからカラフルなものへと変更しました。このライブがその後のバンドの方向性を決めるひとつの転機となりました
その一か月後、10月9日の新宿LOFTでのライブで「深沢」さんと「諸星」さんが脱退。6人編成での活動が終了し、ここからは解散まで4人体制での活動となりました。
キーパーソンでもある元メンバー
BOØWYを語るうえで元メンバーの存在は脱退以降も大きな影響がありました。
最初に脱退したドラムの「木村マモル」さんはドラムを担当しながらも音楽プロデューサー志望していました。そのため1983年にBOØWYのアルバム「INSTANT LOVE」のプロデュースを担当しました。現在もプロデュース業と2012年から「SEIHITSU」名義でミュージシャンとしても活動しています。
動画は「氷室」さんと「木村」さんが所属していた「スピニッヂ・パワー」の映像です。
サックス担当だった「深沢和明」さんは実はBOØWY結成時はベーシストとして加入しました。その後「松井」さんの加入によりもともと担当していたサックスへ転向したそうです。現在は「東京パワーゲート」という劇団で舞台役者として活動中しており、舞台ではサックスを吹くこともあるそうです。
最近では2013年4月6日、7日に「高橋」さん主催の「福島復興支援 チャリティーLIVE SPIN OUT TAKAHASHI MAKOTO VS BOØWYボウイ 60×60 〜 CROSS OVER JAPAN CHARTY GIGS 〜」に、「深沢」さんがゲストで参加しました。
動画は「福島復興支援 チャリティーLIVE SPIN OUT TAKAHASHI MAKOTO VS BOØWYボウイ 60×60 〜 CROSS OVER JAPAN CHARTY GIGS 〜」での「高橋」さんのコメント映像です。
最後にギターであった「諸星アツシ」さんは脱退から1年後に音楽業界を引退したとのことです。
その後の1983年11月27日のライブのアンコールにゲストして登場。「MIDNIGHT RUNNERS」を演奏したことがありました。
動画は「諸星」さんがドラマに出演されたときの映像です。
初期メンバーの脱退理由とバンド以外のキーパーソン
「諸星」さんと「深沢」さんの脱退理由は様々な書籍て触れられています。しかしその内容はまちまちで「音楽性の違い」、「今後の不安」「事務所からのアルバム制作スタッフである「月光恵亮」さんが二人の演奏力をみて提案した」といった内容が書かれています。
実際の真相は不明のままになっています。
一番確実性が高い内容としては2人のラストライブの際に「氷室」さんが理由を語ったことが挙げられます。
「深沢」さんの脱退が告げられた時には黄色い悲鳴も上がったそうです。ラストライブでは「深沢」さんが自作詞の曲「NO.NY」とデヴィッド・ボウイの「Suffragette City」でボーカルをとったそうです。
動画は「深沢」さんがボーカルを取った時のものです。
あと「布袋」さんと共に上京したバンドのメンバーだった「土屋浩」さんはその後「BOØWY」のマネージャーとなりました。
解散後は「氷室」さん、「高橋」さんと共に事務所「ユイ音楽工房」に残留。近年は「高橋」さんの所属する「アースルーフファクトリー」の代表を務めていましたが2012年5月に他界されてしまいました。