「季節の中で」や「大空と大地の中で」、「長い夜」などといったヒット曲をお持ち、政界や世間に
対する鋭いコメントでご意見番としても有名な「松山千春」さん。その数奇な半生と素晴らしい交友録、
現在の活動について迫っていきましょう。
松山千春の生い立ち
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「松山 千春(まつやま ちはる)」さんは1955年12月16日に北海道足寄郡足寄町で生まれました。
北海道夕張郡栗山町出身の父、明さんは1954年に一人で旬刊紙「とかち新聞」を始めた人物として知られています。足寄町出身の母・美代子さんとの間にできた次男(第四子)でした。
時代的な背景もあるかと思いますがお姉さんとお兄さんが早世しており、もうひとりのお姉さんと弟さんの三人兄弟で育ちます。生まれて間もない頃に股関節脱臼と診断されており、診断後に半年間、札幌の北海道大学附属病院に入院しています。
その入院により、多額の借金を背負うことになり、家計を圧迫していたそうです。幼少期のこの出来事は、社会に対するメッセージ性の強い発言をするようになった性格への大きな影響となっています。
小学校に入学。フォークソングとの出会い。
1961年、「足寄西小学校」に入学します。小学校5年生の時にお姉さんの影響でフォークソングと出会います。であった頃に聞いていたミュージシャンは「PPM」や「ジョーン・バエズ」、「ブラザーズ・フォー」等でした。
6年生になった時に幼なじみから教えてもらった「岡林信康」さんが、足寄で弾き語りのコンサートを開催。参加した「千春」さんに大きなインパクトを与え、そこからフォークミュージックに没頭していきます。
その後、「足寄中学校」に入学しましたが、1965年に父親の「とかち新聞」で当時の足寄町長の不正を取り上げたことから裁判となり、町長からの圧力で購読者数が大きく減少。経営難に陥りました。
松山さん自身も納豆売りなどして家計を助けていたとのこと。1969年に裁判は「とかち新聞」側の勝訴で幕を閉じ、また平和な時期が訪れました。
優等生だった高校時代。親の力になりたかった松山千春
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中学卒業後に松山千春さんは「足寄高校」へと入学します。
成績はとても優秀で卒業時に首席となるまでになっていました。当然、担任からは大学進学について勧めを受けました。
しかし、まだまだ苦しかった家計などのことを考え、「早く働いて父を助けたい」という思いから、大学への進学はあきらめたそうです。運動神経も抜群でバスケットボール部に所属し、十勝地区では「シュートの鬼」として恐れられていたようです。
しかし強豪校にあと一歩のところで勝てず、全道大会への進出はできなかったそうです。
高校卒業。1つの夢を叶えるために
高校卒業には、近隣の大きな街である北見市で叔父が経営する小料理屋の手伝いとクラブのバーテン兼照明係で働き始めます。
そんな千春さんにはフォークミュージックという心の支えがまだありました。仕事の合間には作詞・作曲を行いました。フォーク熱が上がり、そのピークに達したとき、1975年の「全国フォーク音楽祭」に応募し、北海道大会に出場。しかし落選してしまいました。
しかしこのことをきっかけに運命の出会いを果たし、事は動き始めるのでした。
松山千春デビュー
運命の出会い。そしてデビューを果たす松山千春
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「全国フォーク音楽祭」落選の翌年1976年に「松山千春」さんはその後「生涯の師」と仰ぐSTVラジオの「竹田健二」ディレクターに出会います。「千春」さんの才能を見出した「竹田」さんの紹介により、同局の「サンデージャンボスペシャル」というラジオ番組内で15分コーナー「千春のひとりうた」を担当することになります。
その翌年1977年1月25日に「旅立ち」でついにレコードデビューを果たします。しかし、同年8月27日に「竹田」さんが突然急性心不全により36歳でなくなってしまいます。
一時期失意の底に落とされますが、このことをきっかけに同年10月には個人事務所として「オフィス・パンタ」(現在はオフィス・ゲンキ)が設立され、活動を続けていきます。
オールナイトニッポンのパーソナリティに抜擢。その名は全国区に
軽快なトークにより、「松山千春」さんは1977年10月よりニッポン放送の人気番組『オールナイトニッポン』の水曜2部のパーソナリティに起用されます。翌年の1978年4月には月曜1部に昇格して、全国にその名を知られるようになりました。
同年に発売したシングル「季節の中で」も人気を象徴するかのように大ヒット。一躍スターダムへと駆け上りました。
その後も代表曲に
- 「大空と大地の中で」
- 「長い夜」
など発表する曲がヒットし、1982年7月に故郷北海道の札幌・真駒内屋外競技場にて5万人コンサート「大いなる愛よ夢よ’82」を開催するほどになっていました。
最初は拒否をしていたTV出演
これだけの人気がありながらも松山千春さんは「出るもんじゃなくって、見るものだから」という理由だけでTVの出演を拒否していました。
しかし、TBS系の人気番組であった「ザ・ベストテン」のプロデューサーであった「弟子丸千一郎」さんに「あなたにはたくさん届いた番組出演のリクエストのハガキに何か答えなければならないはず」というの言葉に感銘を受け同番組への出演を承諾。テレビへの初出演となりました。
30歳からが転機となる
それをきっかけに30歳を迎えた1985年頃からをバラエティや音楽番組、ニュース、ドラマ等に出演する様になりました。同年12月には一般の女性の方と結婚され、その後に長女をもうけました。
ヒット曲を多く、様々なテレビ番組に出演されてきた千春さんですが、唯一出演していないのがNHKの『NHK紅白歌合戦』です。「トリなら出る」として理由からいまだに辞退し続けているそうです。
テレビへの露出が増えながらも、デビュー以降、毎年のようにコンサート活動は続けました。1991年には映画「極道戦争 武闘派」にも出演し、その年の第15回「日本アカデミー賞」では「優秀助演男優賞」と「新人俳優賞」を受賞しています。
バラエティー番組にも出演『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』
ヘイ!ヘイ!ヘイ! の出演でのダウンタウンとの絡みは、これまで松山千春さんを知らなった若い世代の人にも「松山千春ってこんな面白い人なんだぁ」というインパクトを与え、当時は大きな話題にもなりました。
毒舌とビックマウス。そして強い郷土愛。まつわる逸話
松山千春さんといえばビックマウス、毒舌キャラが定着しています。
以前に関西テレビ系「SMAP×SMAP」に出演した際には「松山が生きている限りは自分以上に歌が上手い歌手は出てこない」とコメントしたことがあるそうです。
他の番組においても切れ味の良い毒舌とビックマウスが冴え渡った逸話がたくさんあるそうです。
その一方、地元愛が強く、北海道を愛するフォーク・シンガーであるというポリシーを持っていらっしゃるそうです。歌手として成功してからもしばらくは足寄の実家で生活をしていたそうです。「地方在住アーティスト」の先駆け的存在といえるでしょう。
以前「牛海綿状脳症(BSE)」により、牛肉に懸念が集まった時期には「北の食大使・牛肉大使」を北海道から任命され、全国を飛び回っていたそうです。現在は札幌を拠点としていますが北海道に住み続けたいとおっしゃているそうです。
地元愛が強すぎて…
地元愛での逸話としては、国民的テレビドラマである「北の国から」に関して主題歌の作成を「千春」さんは受けたそうです。脚本家の「倉本聰」さんに傾倒していた時期もあり、お話をいただいそうです。
しかしあまりにも北海道のことが好きすぎるために「倉本」さんとの間で北海道をめぐる価値観の相違から仲たがいし、「北海道のことなど何も知らないくせに」と「千春」さんが罵り、嫌悪を始めてしまう形に。
主題歌作成に関して千春さんは実力を認めていた「さだまさし」さんが適任と「倉本」さんに推薦したそうです。事情を知らず倉本さんからオファーを受けた「さだ」さんは、「僕は九州人。北海道出身の人物がふさわしいのでは?」とお話したそうですが適任者がおらず、主題歌を書いたということです。
暴力団との親交で不祥事
人気絶頂の中で起きた不祥事。そして病気を患った松山千春
平成に入ってからもドラマの主題歌への起用などによってヒット曲を生みだし、併せてコンサート活動を続けていた松山千春さん。しかし突如落とし穴に落ちてしまいます。
それは2007年2月に京都市の指定暴力団「会津小鉄会」の「図越利次」会長就任10周年記念パーティで3曲披露したということが発覚したのでした。
ただの友人としてゴルフなどに出かけており、反社会的勢力であることは知りながらも親交があっての不祥事となりました。あくまでも友人なだけであるとのことです。
報道の影響は大きく、札幌テレビ放送では予定していた特別番組『松山千春 30年目の旅立ち』の放映を中止。同同局のラジオでのレギュラー番組は打ち切りとなってしまいました。
しかしその苦境にも倒れず、2007年5月には、コンサート公演回数が2000回に達し、7月には「松山千春のON THE RADIO」が放送開始とますます活動に専念していくのでした。
不祥事からの脱却にかける翌年に大病
不祥事のあった翌年の2008年。イメージアップをかけ、コンサートツアーを開催していた松山千春さんに突然びょうまが襲い掛かりました。6月25日未明に、ツアー滞在先の大阪で体調不良を訴え、緊急入院となりました。
病院での診断の結果は「不安定狭心症」と診断され、大阪と札幌で2回処置を受けたそうです。
入院時には大阪のスーパースター「やしきたかじん」さんが病院に見舞いに来られたそうです。復帰直後には「たかじん」さんプロデュースのコンサートにゲスト出演し、二人で「東京」、「やっぱ好きやねん」をデュエットしました。
病気後の2008年8月に「月刊松山捨石」を発行、2008年11月には自伝映画「旅立ち〜足寄より〜」が全国公開されるなどより精力的になっていきました。
松山千春の交友関係が凄い
政界、スポーツ、お笑い芸人まで…様々な交友関係を持つ松山千春
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政界にもいろいろな人脈を持つ松山千春さん。
もともと長らく自由民主党北海道連青年部名誉会長をしていたことから「明石康」元国連事務次長や「鈴木宗男」前衆議院議員・新党大地代表、「荒井正吾」奈良県知事などと仲が良いです。
特に新党大地に関しては「鈴木宗男」さんと同じ地元出身で高校の先輩後輩の仲。政党である「新党大地」の名付け親は「千春」さんが行っています。
スポーツ界での交遊録
1956年のコルティナダンペッツォオリンピックの銀メダリストで2019年日本人唯一の冬季オリンピックアルペンスキーメダリストの「猪谷千春」元IOC副会長は、松山の父親に「千春」と名づけるきっかけとなった人物で親交が深いそうです。
他にもスキージャンプの大ファンであることから、1980年5月にリリースされた5枚目のオリジナルアルバム「浪漫」にジャンプチームの応援歌として書いた「空-翼を広げて」が収録されています。
ほかにもプロレスラーの「ジャイアント馬場」さん、野球界では野球評論家・元横浜ベイスターズ監督である「権藤博」さんや「佐々木主浩」さん。相撲界では横綱「千代の富士」だった「九重」親方や「北勝海」の「八角」日本相撲協会理事長と同郷のなじみから交流をもっているそうです。
面白いエピソードとしてはサッカーの「小野伸二」さんが「千春」さんのコンサートに行き、感銘を受けたためにし千春さんと同じスキンヘッドにしたというお話があります。これには「千春」さんも「俺も、伸二がやっちゃったときにはびっくりしたよ。」と語っていたそうです。
芸能人との素晴らしいエピソード
芸能界ではタレント・映画評論家の「おすぎ」さんや「タカアンドトシ」の「トシ」さんはお父さんが「千春」さんのマネージャーを務めていたことで縁があるそうです。
音楽業界では同郷の「GLAY」や「中島みゆき」さんと深い親交があるほかに前述の「さだまさし」さん、あとは同学年であり芸歴では一年後輩の「サザンオールスターズ」の「桑田佳祐」さんとは一緒に野球するほど仲がよく、千春さんの才能をもっとも評価しているとのこと。
「桑田佳祐」さんと「やしきたかじん」さんとのエピソード
「桑田佳祐のやさしい夜遊び」(TOKYO FM)の企画「桑田佳祐が選ぶ2014邦楽ベスト20」では「歩き出してくれないか」を一位にしていて、「千春」さんはこのことについて自身のラジオでアレンジャーの方が喜んでいた事を明かし、「桑田もオレの曲を聴いてくれていたんだな」としみじみ語っていました。
そして2014年に亡くなった「やしきたかじん」さんとはテレビで共演以来、意気投合し、コンサートで幾度と共演するようになっていました。2012年に「たかじん」さんが食道がんを患った際には「千春」さんを頼って札幌で一時療養していたことを「千春」さんが語っています。
松山千春の現在は?
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2016年の7月にてデビュー40周年を迎え、記念ライブツアーを日本武道館を初め、各地で実施しました。
機内で「大空と大地の中で」を1コーラス披露
翌年の2017年8月20日に搭乗した全日空1142便(札幌・新千歳空港発大阪・伊丹空港行き)ではUターンラッシュによる保安検査場の混雑により、出発が遅れた際に乗り合わせていた千春さんが機内で客室乗務員に「みんなイライラしています」と申し出たそうです。
https://twitter.com/MomentsJapan/status/899508201908871168
機長の許可を得て機内放送用のマイクで「大空と大地の中で」を1コーラス披露したそうです。その後、全日空の広報担当者は「松山さんの厚意に感謝したい。」と感謝の意を述べています。
https://twitter.com/morgenrot3180/status/899119948923936768
毎年のようにコンサートを実施し、2019年の4月からは全国ツアーを開催する「松山千春」さん。まだまだ現役で冴える毒舌で世間をぶった切りながら、名曲を生み続けてほしいですね。
松山千春
公式サイト:日本コロムビアオフィシャルサイト