BOOWY(ボウイ)の現在。復活は夢のまた夢?メンバーの今と伝説のライブ(LAST GIGS)までの軌跡。

徐々に浸透していくBOØWYの凄さ

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1983年に入り、「BOØWY」はプライベートオフィス「Ø-con’ nection」を設立します。

「布袋」さんはこの頃からスタジオ・ミュージシャンとしても活動するようになり、仕事の経験がのちの「INSTANT LOVE」やバンドでのスタジオワークに大いに役立ったそうです。

4月30日からは新宿LOFTを皮切りに「AFROCKABILY LIVE」と題したシリーズGIGを展開していきます。そして待望の2枚目のアルバムINSTANT LOVE」が9月25日に徳間ジャパンより発売になりました。サンプル盤の「OH!MY JULLY」のB面であった「FUNNY-BOY」が新宿有線で3週連続1位を獲得しました。

こちらは「INSTANT LOVE」の貴重なライブ映像となります。

レア動画 BOØWY Instant Love インスタントラブ

新天地での仕切り直し

1983年12月31日に歌手「内田裕也」が西武劇場でで開催したイベント「NEW YEAR ROCK FESTIVAL」に出演します。翌年の1984年3月30日・31日 に新宿LOFT2DAYSライブ「BEAT EMOTION LOFT 2DAYS 〜すべてはけじめをつけてから〜」を敢行しました。

こちらは1983年12月31日に出演した「NEW YEAR ROCK FESTIVAL」の模様の動画です。

ニュー・イヤー・ロック・フェスティバル 1983-1984

人気を徐々に獲得し始め、ホール展開も視野に入れたバンド飛躍へ向けた「けじめ」として行ったライブとなりました。

5月31日からは 拠点をライブハウスより一回り大きい「中ハコ」の「渋谷 LIVE INN」 へ移しました。あわせて「BEAT EMOTION」と題したシリーズギグを開始。

ツアー途中での事務所移籍

夏からはそれまで関東近郊や東名阪がメインだったツアーからグレードアップし、「BEAT EMOTION」全国ツアーを敢行しました7月7日の「新宿LOFT」を皮切りに12月7日の山形県 「ミュージック昭和session」までを全22公演を駆け抜けました。

ツアー途中の10月7日には事務所を「ビーイング」から「ユイ音楽工房(現:ユイミュージック)」へ移籍契約レコード会社も「東芝EMI」移籍することを決定しました。この発表と同時にツアー後、半年間のライヴ休止発表しました。

実はメンバーのうち、3人は芸名を使っていた

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1983年12月6日に 「氷室」さんは名前を「狂介」から「京介」に改名します。

もともとの由来は、漫画の「ワル」の主人公の影響によるものでした。しかし京都で出会った占い師に「”狂”という文字は絶対に使ってはいけません」と言われたことから改名しました。

改名後はバンドが売れたために好調を維持するために占いをしないと決めたそうです。しかしこの「氷室京介」という名前は実は芸名で本名は「寺西修(てらにしおさむ)」さんだそうです。

氷室さん以外も…

「松井」さんも芸名を使用しています。本名は「松井恒二(まついこうじ)」といいます。

芸名の「恒松」は、本名の「恒」の字を活かして当時人気のあったバンド「フリクション」の「恒松正敏」さんをヒントにしたものだそうです。今では芸名は「常松」としています。

「高橋」さんは本名は「」という漢字になります。覚えやすさをこめてひらがなにしたようですね。1985年頃までは「BAD FEELING」の作詞者クレジットにで見ることができますが漢字表記になっていました。唯一「布袋」さんだけは、デビュー時から本名を名乗っています

BOØWYの面白エピソード

多くのライブを重ねた「BOØWY」には面白いエピソードもたくさんあります。

「高橋」さんは当時地方遠征の際は、メンバーに内緒でへそくりを持っていたそうです。内緒にしておかないと「酒を飲もう」、「飯を食おう」と言い寄られるためとのこと。メンバーが後のインタビューでは「(遠征先にて金欠になると)まこっちゃんが靴を脱いでへそくりを出してくる」と発言しています。

その光景はよく見られたといいます。金額は車で東京まで戻ってこられる額をいつも持っていたそうです。

佐賀県での県民の森イベントに参加した際の話です。

イベントとして3万人規模のコンサートがあるという話を聞き、出演のために駆けつけたバンド一行。しかしそれは村の夏祭りでステージに集まっていたのは30〜40人ほどだったといいます。なんとギャラは村で収穫された野菜や酒だったとのこと。。

実際到着時点で金欠状態になっており、ギャラを帰りの交通費としようとしていたためにかなりに困惑したそうです。

東京までの帰路の手段は真相は不明ではありますが「消費者金融で借りたか、機材車のハイエースを担保にしたかのどちらかだったと思う」、「マネージャーの土屋に主催者と再交渉させ、どうにか帰りの高速代くらいは出してもらえた」などインタビューなどで回想しています。

週刊誌ネタも自分の持ちネタに

週刊誌の「FRIDAY」でよくバンドが話題とされており、「氷室は殺人罪の前科あり」という事実無根の記事が掲載されたことがあったそうです。この内容を持ちネタし、その後敢行したライブでは「殺人罪の氷室です」とMCしたそうです。

他にも「氷室と布袋が不仲」という記事が掲載された時も、「氷室」さんはライブのメンバー紹介で「布袋」さんを紹介するときに「彼とは楽屋を別にしてもらってます」とネタしていました。

人気が上昇し、大きなステージを成功させていく

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1985年2月24日からドイツのベルリンにある名門レコーディングスタジオである「ハンザ・スタジオ」で「GLAY」や「黒夢」などのプロデューサーとして有名な佐久間正英」さんを迎えて「BOØWYボウイ」のレコーディング開始します。

レコーディング期間中の3月12日にはロンドンの「マーキー・クラブ」GIGを行いました。帰国後の4月13日にマスコミに招待状を送ったコンベンションライブを実施します。

そしてアルバムからの先行として6月1日にバンド初のシングル「ホンキー・トンキー・クレイジー」をリリースします。

同月21日にはアルバム「BOØWYボウイ」発売

25日には「渋谷公会堂」で初の大ホール・ワンマンコンサートを行い、大成功を収めました。

そして8月22日にはギターのカッティングフレーズが斬新なシングル「BAD FEELING」を発売します。

「BAD FEELING」の動画がこちらです。

BAD FEELING

その後9月6日から「名古屋芸術創造センター」から始まる「BOØWY’Sボウイズ BE AMBITIOUS」ツアーを開催。

12月24日の最終公演「渋谷公会堂」ではライヴ終了後にステージ上で「布袋」さんと「山下久美子」さんとの結婚が発表されました。

バラエティ番組などテレビの露出が増える

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1986年に入り、2月にシングル「わがままジュリエット」、3月には アルバム「JUST A HERO」発売しました。同月24日からは「JUST A HERO TOUR」を開始。このころからテレビへの露出が増えるようになります。

1986年4月26日には「中京テレビ」制作「5時SATマガジン」で「ロックスターボウリング大会」に「聖飢魔II」などと一緒に出場した映像が放映されました。当時の映像がこちら。

「ボーリング大会」

その後も「5時SATマガジン」には数回出演しています。

「山田邦子」さんが司会するフジテレビ系「いきなり!フライデーナイト」にもしばしば出演しています。

バラエティながらも出演した経緯としては司会の「山田邦子」さんが、ライブハウス時代からのファンであったことが大きそうです。

「氷室」さんは「山田」さんが楽曲をよく理解してくれていたから」だと述べています。

番組内ではお酒を飲んで楽しむ姿なども映っており、メンバーが酔っ払ったまま出演しています。「氷室」さんが俺のオヤジ、邦子ちゃんの大ファンなんですとぶっちゃけたこともありました。

BOOWY

7月2日に「JUST A HERO TOUR」が「日本武道館」公演をもって終了。

7月31日にはこの武道館公演を収録したライヴアルバム『“GIGS”JUST A HERO TOUR 1986』が限定盤として発売されました。翌月の8月2日-3日には歌手の「南こうせつ」主催野外ライブ「第6回サマーピクニック」にゲスト出演しています。

9月29日にはシングル「B・BLUE」を発売。

その当時人気の音楽番組であったフジテレビ系列の「夜のヒットスタジオ」に登場した際の動画です。

BOOWY 夜のヒットスタジオ B-BLUE

「夜のヒットスタジオ」の「対面シリーズ」では、「氷室」さんの初恋の女性が登場しました

「氷室」さんは「さすがフジテレビだぜい!」と驚いたそうです。しかし本当にこの女性が来るとは思っていなかった為、収録後にメンバー全員が出演したことを後悔したという思い出があるそうです。

雑誌関係の露出が少ない理由

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テレビでの露出がある一方で日本音楽史の中で多大な影響を与えた「BOØWY」は音楽雑誌に掲載された記事自体は少ないそうです。

「B・BLUE」がヒットした直後からインタビュー等のオファーが殺到したそうですがほとんどを拒否したとのこと。

ブレイクする以前から懇意にしていたライターさんや音楽をよく理解してくれていたライターの雑誌だけに対応していたそうです。

理由としては、ライブハウスで活動していた時期から熱意剥き出しで挑んだインタビューがほんの僅かしか掲載されていない。懸命にスタイリングして撮影したはずの写真が掲載されていないといった経験が根底にあるためでありました。

それがメディアへの不信感へとなり、影響していました。

この姿勢はマネージメント側も同様だったそうです。本当に聴きたいお客さんの席を確保するためにライブには基本的にメディア用の招待席は用意されていなかったそうです。

  • 著名な音楽評論家が門前払いにされた事態
  • レコード会社の重役が観客と一緒の状況化で観る

といった珍事がライブであったそうです。

ターニングポイントとなったツアーの開始

1986年11月8日にアルバム「BEAT EMOTION」が発売され、同月の11日より「ROCK ‘N ROLL CIRCUS TOUR」開始されました。「BEAT EMOTION」はオリコンアルバムチャート初登場1位を記録しました。

こちらは「ROCK ‘N ROLL CIRCUS TOUR」時の映像です。

[BOØWY] Baby Actionの最初のシーンがカッコイイ!

そして1986年12月16日の「長野市民会館」でのライブ後に事が起こります。

それはホテルのバーでメンバー全員が解散について話し合いを行ったのです。最初に解散を提案したのは「布袋」さんだったと言われています

実際、それまでは「(オリコン)1位を取ったら解散」とメンバー間では話なされていたそうです。しかしブレイクする以前はまだ非現実的だった為、冗談半分の話にされていました。

しかしアルバム「JUST A HERO」がメンバー全員にとって音楽的に満足のいく作品となり、その後オリコン1位値といったの商業的成功を収めたことで現実的な内容での話し合いが持たれた形となりました。

解散へのカウントダウンが始まる

水面下で解散へ向けて進み始める中、12月24日には「サザンオールスターズ」の「桑田佳祐」さんが中心となり、作成された日本テレビ系列の特別番組『メリー・クリスマス・ショー』にビデオ出演します。

テレビではほとんど見られないミュージシャンが一堂に会して歌などを披露する豪華な番組でした。製作のクレジットにはありませんが「山下達郎」さんも番組の構成や楽譜書きなどの協力したそうです。

「BOØWY」は「吉川晃司」さんと「ビートルズ」の「ヘルプ!」をカバーします。その他にもオープニングの「カム・トゥゲザー(同じくビートルズの曲)」や出演者のほとんどが参加した「ロッケストラ」にも参加。

動画は番組で披露された「ローリング・ストーンズ」の「夜をぶっとばせ」の時模様が収められている内容になっています。

LET'S SPEND THE NIGHT TOGETHER