浜田省吾の現在。名曲の誕生秘話や苦境からトップシンガーへの岐路とは。素顔ってどんな人?

日本のミュージックシーンにおいて大衆的なポップミュージックにメッセージ性を持たせた

第一人者である「浜田省吾」さん。多くの名曲を生みながら、あまり見せない素顔に関して

いままでの経歴と共に現在の姿を見てみましょう。

浜田省吾の出身と音楽のルーツ

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沢山の有名アーティストを生んだ広島で育った浜田省吾

「浜田 省吾(はまだ しょうご)」さんは日本を代表するシンガーソングライターです。愛称は「浜省(ハマショー)」で知られています。

当初この内容については「快く思っていない」と語っていたそうです。しかし、近年は自ら「浜省」を使っており、「そのように呼ばれることに特に抵抗は無いとなったようです。

1952年12月29日広島県竹原市で特高警察官の父親と母親の間に生を受けます。お姉さんが2人おり、音楽に関する情報提供者として重要な役割を担ってくれていました。

父親は転勤が多いために3歳から尾道市、廿日市市、広島市佐伯区、南区元宇品など県内の転校を繰り返していました。18歳までに20回近く引っ越しをし、この経験がその後の人格形成に影響を与えました

ラジオで聞いたビートルズがロックの初体験

9歳のときに江田島市鷲部地区に引っ越しをした浜田さん。この時に大きな出会いをします。それはラジオから流れるビートルズの楽曲「プリーズ・プリーズ・ミー」でした。

小学校4年生の時に雑誌に載っていた「ビートルズ」の写真を初めて見て「どの人がビートルズ」とお姉さんに聞いそうです。当時、洋楽はソロシンガーが主流であったために、グループということに衝撃を受けました。

お姉さんの誕生日プレゼントだったギターを拝借し、ギター演奏を始め、少しづつ音楽への興味がわいていきます。学校でもホウキをギターにし、ビートルズなどの真似をするほどでした。ビートルズに関しては記事がでるとスクラップするほどのファンだったということです。こちらは「少年の心」のMVになります。

浜田省吾 『少年の心 (ROAD OUT MOVIE)』

中学入学。音楽と漫画が好きな少年

1965年に呉市の汐見町に移り住みます。併せて呉市立二河中学に転校。このときに米軍基地で流れているラジオである「FEN岩国」と出会い、毎日のように洋楽を聴くようになります。

「ビートルズ」、「モータウン・サウンド」、「ビーチ・ボーイズ」、「ヤング・ラスカルズ」などの当時の人気ポップミュージックを体に沁み込ませました。

音楽と同じくらいに漫画も大好きだったそうです。

好きが高じて自分でケント紙を買ってきて、そこに枠線を引いて漫画を描くほどになっていました。それをクラスで回し読みしていたそうです。今でも「あしたのジョー」だけは全巻揃えているとのことです。

 

 

浜田省吾の青春時代

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ロックに没頭する高校時代、夢を選び大学中退した浜田省吾

1968年になり、父親の期待に応えたいということからで受験勉強に励んだ結果、県内有数の進学校である広島県立呉三津田高等学校入学します。しかし、ロボットのように休憩時間までも予習・復習をしている生徒たちの姿に馴染めず、不良の溜まり場として有名だった野球部へと入部しました。

ついにバンドの道へ

その後は「グルックス」というバンドを組み、その時に盟友となる「町支寛二」さんと出会います。この出会いをきっかけに広島の巨大アマチュアフォークサークル広島フォーク村」に参加します。

学校生活では野球部は人付き合いにおける対立から3年生の時に退部し、辞めた後はフォークソング・クラブと新聞部に所属。生徒会役員にもなり、徐々に活発化する学生運動にも積極的に参加していました。

こちらは「君の名を呼ぶ」のMVになります。

浜田省吾 『君の名を呼ぶ (Flash & Shadow)』

しかしこの時代は本人にとってはロックの暗黒時代」と語っています。

理由としては解散を迎えた「ビートルズ」やお気に入りだった「ビーチ・ボーイズ」や「ラスカルズ」の活動低迷によるものと言われています。

そんな中でも「レッド・ツェッペリン」や「クリーム」、「ジミ・ヘンドリクス」などのハードロック傾向のバンドは聴いていらっしゃったそうです。特に「レッド・ツェッペリン」は友人に勧められて聴き、「ビートルズ以来」の衝撃だったそうです。

大学入学。音楽中心の日々で決めた決意

1971年に大学受験に失敗し、浪人生となった「浜田」さん。予備校に通うために大竹市へと移り住みます。そんな状況においても学生運動には参加し、激しい反対運動にも参加していたそうです。この頃に映画「アメリカン・ニューシネマ」をよく観て「J・D・サリンジャー」に影響をうけ、アメリカ文化への憧れが強くなります。

同時期にレッド・ツェッペリンの広島公演のコンサートを観に行っており「聴いたことがないくらいデカい音」ということを感じたり、「ボブ・ディラン」をフォーク村の先輩から勧められて聴き、「なんか変わった歌い方をするなぁ」と自分にあった音楽スタイルの模索も始めました。

そして1972年に1年間の努力が実り、神奈川大学法学部に入学します。キャンパス・ライフに胸を弾ませながら上京しましたが、学生運動はより激しさを増し、大学運営が成り立たない状態になっていました。そのために浜田さん自身は親からお金を送って大学に通うことが無意味と思い始めます。

そして同時期に東京周辺で大学生活を送っていた「町支寛二」さんたちと再会し、一緒にバンド活動を始めるのでした。

曲作りに開眼。夢を追うために大学中退

20歳の夏に大学前で借りていた下宿にて「二人の夏という曲を作ります。「ザ・ビーチ・ボーイズ」のオマージュとして作った曲ですがバンドメンバーに聴かせたところ、これが高評価を得ます。のちに「浜田」さんは「あの時、けなされていたら曲作りは止めていたかも知れない」と話していました。

音楽活動にどんどんと乗り込んでいった浜田さん。全く機能していない大学の生活への失望もあり、1973年の大学2回生の時に大学の中退を決めます。下宿の引払い日に、大学構内で激しい抗争があり、死傷者まで出した騒動を朝まで見ていたそうです。

これで大学で思い描いた日々と決別し、「もうすべてが終わった」と実感し、広島に戻ったのでした。

浜田省吾 プロデビューへ