人気が絶頂に。そして運命の日を迎えるBOØWY
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テレビへの出演がなくなっていく
1987年2月24日 に日本武道館での公演をもって「ROCK ‘N ROLL CIRCUS TOUR」ツアーが無事終了。
4月6日には シングル「ONLY YOU」発売します。
『夜のヒットスタジオ』「ONLY YOU」で出演した際には、
その際に司会の「古舘伊知郎」さんから「(氷室さんの衣装が)銀座の買い物帰りのおばさんみたい」と言われたり、「布袋」さんに対しては「殿さまキングス」の物真似を強要。「高橋」さんは自前のドラムセットを使えなかったこと等があり、
この時期を境にテレビへの出演はなくなっていきました。
7月22日には今でもよく耳にするシングル曲「MARIONETTE」が発売されます。
その時のプロモーションビデオになります。
「MARIONETTE」にはアニメ・バージョンが存在します。
製作したのは「トップをねらえ!」や「新世紀エヴァンゲリオン」などを作成した「GAINAX(ガイナックス)」が担当しました。当時のGAINAX社長であり、現在は評論家の「岡田斗司夫」さんは、自著の中で「当時は誰もがあれをやりたがった」と記述しています。
7月31日にはライブ「CASE OF BOØWY」を開催し、初期の曲も含めた総括的なセットリストが話題となりました。その後8月7日にも横浜でも開催されます。8月22日・23日にはイベント「BEAT CHILD」に出演します。
バンドのゴールが見えてくる
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1987年の9月5日にオリジナルアルバムとしては最後の「PSYCHOPATH」が発売。
同月16日から「ROCK’N ROLL REVIEW DR.FEELMAN’S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR」を開始します。10月26日には 事実上のラストシングル「季節が君だけを変える」発売。
ラストシングルにかけた思い
ラストシングルの「季節が君だけを変える」は、「布袋」さんが「もっと深い、俺たちの関係を言葉にして欲しい」と「氷室」さんの歌詞に対して意見した最初で最後の曲と言われています。要求の見返りとして「氷室」さんは作詞作曲した「CLOUDY HEART」をB面にさせたそうです。
その楽曲がこちらです。
この頃にはファンの間で「ROCK’N ROLL REVIEW DR.FEELMAN’S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR」の最終公演である12月24日の「渋谷公会堂」で解散」という情報が事前にリークしていたようです。
これについて音楽誌「BANDやろうぜ!!」の編集後記で
「活動後期の歌詞や活動内容の加速度・充実度やエピソードから一部ファンと音楽ライターが年内解散を予測しており、複数発生源の口コミとして広まった」
ということ書かれたことがあるそうです。
ついに迎える”解散”の時
人気絶頂の最中にあった1987年12月24日に予定通りに「解散」を宣言。
当日はチケットを入手出来なかったファンが会場前に多数集まり、会場内の様子を知ろうと揉み合いになるうちに正面入口のガラス戸が割れるという事態にまで発展してしまいました。
この発表は社会にも大きな衝撃を与え、NHKではバンド解散が臨時速報されました。ロックが市民権を得る前の時代であったことにNHKがバンドの解散を取り上げたのは異例ともいえるでしょう。
ライブ内容を収めたDVDである「1224」には、騒動を物語る割れたガラス戸の映像が収められています。終演後は、会場前のファンに向けても「解散宣言をした」とアナウンスされました。
その模様がこちら。
翌日12月25日の「朝日新聞」の朝刊にバンド側からのコメントが掲載されました。その他 新聞各紙の広告スペースにも解散メッセージが掲載されました。
BOOWY解散。当時これを見たときは衝撃で固まった。忘れられない。イブの夜、自宅にいた私は氷室京介から解散宣言されたことを当然知らず、翌朝これを見た。新聞広告を出がBOOWYっぽかった。 pic.twitter.com/l6r6avJ8I4
— CUE太郎 (@gowgowhicky) April 14, 2016
伝説となったLAST GIGS
翌年の1988年2月3日に未収録3曲を追加したアルバム「MORAL+3」とバンド最後のオリジナルシングルとなる12インチシングル「DAKARA」を発売しました。その後4月4日、5日に「東京ドーム」で「LAST GIGS」を敢行することを発表。
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ライブ開催発表後、9万枚以上用意されていたライブチケットがなんと僅か10分で完売してしまいます。予約の電話が殺到した結果、文京区の電話回線がパンクするという事態が発生しました。その出来事を掲載した記事がこちら。
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これら一連の流れから「BOØWY」の人気は社会現象にまで発展しました。
こちらが「LAST GIGS」の映像の一部となります。
「LAST GIGS」についてメンバーは「あくまで前年の12月24日でバンドは解散しており、少し早い再結成、同窓会のようなもの」と発言しています。実際には、最終公演後の移動車内でメンバー全員が泣いていたとのことです。このライブにてバンド活動に終止符が打たれました。
翌月の5月3日に アルバム『LAST GIGS』を発売し、12月24日にアルバム『SINGLES』を発売されました。
解散理由は今も憶測の域を出ないBOØWY
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バンドの解散に関しては各メンバー間で捉え方は微妙に異なっています。発言内容から見ると様々な状況が折り重なった結果だということを理由としています。
要因のひとつとして「布袋」さんが「自身が海外での活動を強く希望した」と発言したことが大きいようです。
解散について多くの発言を残す布袋寅泰
実際「布袋」さんはいろいろな媒体で解散について発言しています。
1986年10月のインタビューでは
「最終形のものを描く時が来ると思うんですよ。売れる売れない関係なく。レコード作ったりツアーやって『これで俺らはやることやった』って思う時が来ると思う。そしたらそこでおしまいだと思う。ある意味じゃ解散に向けて頑張ってるんだと思う」
と語っています。
2004年6月6日にNHK総合のテレビ番組「トップランナー」のインタビューでは
「100万枚とか売れる風になると当たり前にロック好きじゃない子も入ってくる。それがミュージシャンとしてすごく居心地悪くなってきた。誰も自分のギターなんか聴いてないんじゃないか、ただキャーキャー言ってるだけじゃないかと感じるようになった」
「後期になっていくと、上手くいけば上手くいくほどだんだん味気なくなり、メンバー全員がバンドや自分自身に対して違和感を抱くようになった」などの状況が重なり、次第にギクシャクしていったという。また
「(バンドに対する)一番大きな傷(=解散するという事)は自分達で付けるべきだと思った」
「自分たちで作ったバンドだから、人に壊されるよりは自分たちで壊した方が筋だという思いもあった」
引用:NHK総合 「トップランナー」(2004年6月6日)
とコメントしていました。
アイドルのような扱いを受けたくなかった
他の理由としてはブレイクしたことによりアイドルのような扱いをされ始めたことということが言われています。あきらかにスタイルを真似たようなバンドが数多く出てきたことにより違和感を覚えたそうです。
アルバム「PSYCHOPATH」のジャケットでは「布袋」さんが髭を蓄えています。真意としては「アイドルにはなりたくない」という心境からだといいます。
アルバムのツアー前半では彼本来のステージアクションがなく「まったく動く気になれなかった」、「最初は髭を生やしたままステージに出ようかとも思った」と語っていたそうです。
氷室と布袋の不仲説が有力?
よくある説としては「「氷室さん」と「布袋さん」の不仲が原因」という内容になります。しかし、両者ともに不仲が解散の原因とは違うと否定しています。
「氷室」さんは解散後のインタビューにて
「雑誌ではライバルという書かれ方をしていたけど、俺は布袋の事を1度もライバルと思った事はない。それがソロとバンドの違いだと思う。バンドの中でメンバーをライバルだと思っていたら、バンドの良さって絶対出ないと思う。俺は布袋を最高のギタリストだと思っていた」
と語っており、布袋さんも
「僕はヒムロックのこと好きだし、自分が嫌いな人の横でギターを弾けるわけがない。第一BOØWYボウイは僕とヒムロックだけのバンドじゃない。まっちゃんやまこっちゃんのビートがあってのバンドだった訳だから。そんな理由じゃ解散できない」
引用: NHK-FM「ミュージックスクエア」1990年5月3日放送分より
と自身のラジオ番組内で発言しています。
下記は「高橋」さんが二人の不仲説について語った時の内容の動画です。
メンバーそれぞれの見解
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氷室さんは解散について、自身のVHS作品のインタビューで以下のように語っています。
「楽しくて始めたはずのバンドが、ロックビジネスというシステムの中に組み込まれて、少しずつ自分達の考えと違う方向に、勢いがついて転がっていってしまった。あと妙な義務感みたいなものがすごく大きくなって、苦しくなってきた。だから全盛と言われる中で解散したのは決して後悔すべきことじゃなくて正解だったと思うし、それだけ自分たちが音楽を正直にやっていく上でBOØWYボウイ解散はなくてはならないことだったと思う」
「BOØWYボウイの4人で出来る事を全て実現してやりきったというのが結論。なのでもう辞めるしかない。辞めないで、そのまま3年4年と続けるのは厳しい」
引用:『KING OF ROCK SHOW of 88’S-89’S TURNING PROCESS』 インタビュー
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布袋は解散後の雑誌インタビューで
「音とか売り上げとかじゃなく、意識が完成したから解散したんだと思う」
引用:「ROCKIN’ON JAPAN」1988年6月号「ROCKIN’ ON JAPAN FILE vol.2」
と語っています。そして自分の著書においても、
「決してひとつの理由などではない。もしいま4人が集まり解散の理由を話したとしたら、きっと全員見事にバラバラなのではないかと思う。BOØWYボウイはBOØWYボウイのもの。4人のもの。「俺にはこんな理由がある」などと4分の1の存在が軽々しく語ってはならないと思う。俺には俺の”絶対に解散せねばならない理由”があったが、それは墓まで持っていく」
引用:「秘密」布袋寅泰 著
と記述されています。
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「松井」さんに関しても著書の中で
「本当にすべてが上手くいっていたら解散なんてしない」
「確かに口火を切ったのは布袋だけど、それ以前にも解散の危機は何度もあった」
「友達としていつも一緒にいたいけど、でもそれと音楽は別にしなきゃっていう分かれ道だったのかもしれない」
「満たされてはいなかったけど、もう選択肢が他になかった」
「もしまた、あの4人で同じステージに立てたとしたら、それはすごくエキサイティングだろうなと思う」というコメントも残している。[6]
とコメントされています。
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「高橋」さんも著書内で以下のように記述しています。
「ファンとの温度差みたいなものが出てきていた。こっちは新しい曲を作って演奏しているのに「IMAGE DOWN」や「NO.NEW YORK」を演らないと納得しないようなノリがあったり、布袋がギターソロを弾いているのに氷室ばかり見ているお客さん、氷室が一生懸命歌っているのにまったく違った受け止め方をするお客さんなんかもいたりして、自分たちの音楽が本当に理解されているんだろうかっていうジレンマが生まれてきた」
「BOØWYボウイというメンバー以外の人間も数多く関わっているプロジェクトともなれば、誰が良くて誰が悪いという単純なことは言えない」
真相は今だ闇の中に…
プロインタビュアーの「吉田豪」さんは、「布袋」さんが当時の妻である「山下久美子」のツアーに注力しすぎたことでメンバー間に溝ができたことが解散理由という説をラジオ番組内で唱えています。その内容がこちら。
実際「BOØWY」側からの正式なコメントは発表されておらず、各メンバーの多種多様なコメントや推測記事等が入り乱れているのが現状となります。
よって正式な解散理由は、2019年の解散から30年以上経った現在でも真相は闇の中にあります。