日本人メジャーリーガーのパイオニアと呼ばれている野茂英雄さん。
現在、日本人メジャーリーガーが活躍しているのは、野茂英雄さんが道を切り開いたからだと言われています。
しかし、野茂英雄さんのメジャーリーグ移籍は、古巣である近鉄との確執から始まりました。
その辺りについてまとめてみました。
プロ入り前の野茂英雄
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野茂英雄さんは、大阪府大阪市出身の1961年8月31日生まれ。
小・中学校時代は全くの無名でしたが、「体を捻って投げると直球の威力が増す」とのことから、後の投球ホームである「トルネード投法」の原型のとなるフォームで投げていました。
当時は「つむじ風投法」と呼んでいたそうです。
高校時代には完全試合を達成
高校進学時にいくつか野球名門校のセレクションを受けますが、いずれも不合格。
結局、大阪府立成城工業高等学校(現・大阪府立成城高等学校)に進学しました。
高校では2年生からエースとなり、1985年7月19日に全国高等学校野球選手権大阪大会2回戦で完全試合を達成。
3年時はベスト16(5回戦)進出という成績を残しています。
社会人野球を経て、プロ入り
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野茂英雄さんは、高校卒業後、社会人野球の新日本製鐵堺に入社。
2年目にはチームを都市対抗野球大会に導き、日本代表にも選出されています。
1988年のソウルオリンピックでは銀メダル獲得に貢献し、名実ともにアマチュアNo.1投手になりました。
1989年のプロ野球ドラフト会議では、史上最多の8球団から1位指名を受け、抽選の結果、近鉄が交渉権を獲得し、入団しました。
契約金は史上初の1億円台となる1億2000万円、推定年俸は1200万円で、投球フォームを変更しないという条件も付け加えられました。
プロ1年目でタイトルを独占
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近鉄入団後は、1990年4月29日のオリックス戦で日本タイ記録(当時)の1試合17奪三振を記録し、完投でプロ初勝利を挙げています。
この年は新人ながら、最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率とタイトルを独占。
ベストナイン・新人王・沢村栄治賞・MVPにも輝いています。(パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂英雄さんはパ・リーグからの受賞第1号となりました)
奪三振記録を更新し、「ドクターK」と呼ばれる
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野茂英雄さんと言えば、奪三振率が高いことで有名ですが、次々と奪三振記録を更新し、「ドクターK」と呼ばれるようになりました。
1991年には、6試合連続2桁奪三振を記録。
1993年にも、5試合連続2桁奪三振を記録しています。
日本での獲得タイトルは、
最多勝:4回 (1990年 ~1993年)
最高勝率:1回 (1990年)
最優秀防御率:1回 (1990年)
最多奪三振:4回 (1990年 ~ 1993年)
球団との確執から、メジャーリーグ移籍を模索
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野茂英雄さんは、1994年の契約更改では複数年契約と代理人交渉制度を希望しますが、近鉄側がこれを拒否。
マスコミも近鉄側に同調し、野茂英雄さんは次第に孤立していきました。
話し合いは平行線をたどり、近鉄側は野茂英雄さんが近鉄でプレーする意思がいない限り、トレードや自由契約ではなく、「任意引退」として扱おうとしました。
自由契約にならない限り、他球団でプレすることが出来ない為、野茂英雄さんはメジャーリーグへの移籍を模索し始めました。
しかし、当初から野茂英雄さんはメジャーリーグ移籍を希望していたため、「近鉄側から任意引退を引き出したのは、作戦だった」と後年、明かしています。
監督とも確執があった
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野茂英雄さんは、近鉄の鈴木啓示監督(当時)とも確執がありました。
野茂英雄さんは、「投球フォームの改造をしないこと」を条件に近鉄に入団しています。
入団時の仰木彬監督はこれを快諾し、調整方法も野茂英雄さん本人に任せていました。
野茂英雄さんは後年、「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げするためにチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」と話しています。
しかし、1993年に就任した鈴木啓示監督は、自身が先発で317勝した実績から野茂英雄さんの投球フォーム、調整方法に干渉してきました。
鈴木啓示監督は、就任後に出演したラジオ番組で野茂英雄さんについて、「三振は取るが四球が多すぎる。投球フォームを改造しなければ。いまのフォームではいずれ通用しなくなる。その時に私に頭を下げてこられるかどうかだ」と語り、野茂英雄さんの制球力の悪さに不満を持ち、投球フォームも完全否定しています。
こうした指導法から、野茂英雄さんは鈴木啓示監督を毛嫌いするようになり、近鉄退団の理由一つになったと言われています。
交渉は決裂し、メジャーリーグへ挑戦する
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野茂英雄さんと近鉄の交渉は決裂し、野茂英雄さんはメジャーリーグ挑戦を表明します。
当時の野球協約68条第2項には、「全保留選手は、他の球団と選手契約にかんする交渉を行ない、または他の球団のために試合あるいは合同練習等、全ての野球活動をすることは禁止される」 となっており、国内の他球団でプレーすることは出来ませんでした。
しかし、それは海外の球団にまで及ばなかったため、メジャー球団と契約することが可能でした。
現在はこの規約は改定され、任意引退した選手は世界各国のプロ野球球団(日本、メジャーリーグ含む)と契約することが出来なくなっています。
ドジャースとマイナー契約を結ぶ
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野茂英雄さんは、1995年2月8日にメジャーリーグ:ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結びました。
契約金200万ドル(約1億7000万円)、年俸は近鉄時代の1億4000万円から激減し、わずか980万円になりました。
背番号「16」は、当時親交のあったとんねるずの石橋貴明さんが選んだそうです。
同年5月2日のジャイアンツ戦で、メジャーデビューを果たし、村上雅則さん以来、31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなりました。
6月2日のメッツ戦でメジャー初勝利を挙げ、その後の試合でも、球団新人最多記録の16奪三振を記録し、24日のジャイアンツ戦では日本人メジャーリーガー史上初の完封勝利を記録しています。
1995年シーズンで13勝6敗、防御率2.54(リーグ2位)、236奪三振、3完封(りーグ最多)を記録して最多奪三振のタイトルを獲得し、チームの7年ぶりの地区優勝に貢献しています。
様々なチームを渡り歩き、12年でメジャー通算100勝を達成
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野茂英雄さんは12年間で、ドジャース→メッツ→カブス→ブルワーズ→タイガース→レッドソックス→ドジャースとメジャー球団と渡り歩きました。
1996年9月17日のドジャース時代(ナショナルリーグ)と、2001年4月4日のレッドソックス時代(アメリカンリーグ)にノーヒットノーランを達成しています。
両リーグにわたってのノーヒッター達成者となり、これはサイ・ヤング、ジム・バニング、ノーラン・ライアンに次ぐ史上4人目で、もちろん日本人では初の快挙です。
ドジャース時代の2003年4月20日には、日本人初のメジャリーグ100勝を挙げています。
野茂英雄さんは、2008年限りで現役を引退し、日本に帰国しています。
メジャリーグでの成績、
登板数323試合、123勝109負、16完投、9完封、防御率4.24、奪三振1918
現在は解説者、臨時コーチとして活動
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現役引退後は、2008年・2009年はオリックスバッファローズ、2010年・2011年には広島カープ、2019年の春季キャンプでは中日ドラゴンズの臨時コーチとして招かれています。
2010年からは野球解説者としても活動しており、この年の日本シリーズ第6戦を解説し、ソウル五輪でバッテリーを組んだ古田敦也さんと共演しています。
2011年からは、年に1試合のペースで、「スーパーベースボール 虎バン主義」(朝日放送テレビ)のセ・パ交流戦中継にゲスト解説者として出演しています。
NOMOベースボールクラブを設立
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野茂英雄さんは、2003年、日本の社会人野球チームが次々に廃部となっていく現状に対し、野球を志す若者に少しでも受け皿を作りたいという理由で、かつて所属した新日鐵堺チームがあった大阪府堺市で社会人野球クラブチーム「NOMOベースボールクラブ」を設立し、オーナーに就任しています。
2005年の結成2年目には、全日本クラブ選手権で日本一に輝いています。
野茂英雄のセカンドキャリアは?
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野茂英雄さんはアマチュア野球界の指導に力をいれているようで、プロ野球界で指導者になる可能性は低いように思えます。
社会人だけでなく、少年野球の指導もしているので、今後は指導者として活動するのかもしれません。
今後の活躍に期待しましょう。
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