大河ドラマで放映されていた平清盛ですが、ドラマは視聴者を引き込むために様々な脚色をしています。
- 史実でどのような生涯を送ったのか?
- 平清盛が成し遂げたことはどのようなことだったのか?
平清盛死後、平氏は源義経という軍事的な天才の出現によって滅ぼされてしまいます。
しかし、平清盛はそれ以前に誰も成しえなかったことをしているのです。
平清盛の実像に迫っていきましょう。
平清盛(たいらの きよもり)とは
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平清盛は桓武平氏出身の人物であり、源氏を凌駕して平氏の天下を創出した人物です。
平清盛の死後、源頼朝・源義経兄弟によって平氏の天下は終焉してしまいますが、平清盛は武士の世を体現した先駆者と言えます。
天皇家の内紛によって一気に上り詰め、源氏によって一気に引きずりおろされた平氏一族を率いた平清盛とはどのような人物なのか?
平清盛はいつ活躍した人物なのか?
平清盛が活躍した時代は、平安時代末期です。平安時代とは、794年~1185年までを言います。
鎌倉幕府以降の時代を鎌倉時代と呼ばれますので、それ以前の時代です。
平安時代は貴族全盛の時代とも言え、源氏物語や枕草子など文学が栄えました。
貴族は荘園を有することで、我が世の春を謳歌しておりその荘園を管理していたのが武士です。
本来なら武士が土地を開墾し、一生懸命の語源でもある一所懸命という言葉が示しているように土地は武士にとって命といえます。
しかし土地の所有は貴族に限られており、武士は貴族を所有者として土地の管理人に成り下がるしかありませんでした。
こうした時代背景を踏まえると、平清盛が武士のパイオニアとして果たした役割は大きなものです。
平清盛は何をしたことで有名なのか?
では平清盛は何を成し遂げたのでしょう?まず第一に取り上げたい部分は日宋貿易です。
貿易がなぜ功績となるのか?武士は土地を開墾し、貴族は搾取する側にいます。
武士が台頭していくには、力が必要です。武力なら武士が独占していましたが、権威・権力は貴族が握っていました。
貴族に対抗していくためにはどうすればいいのか、この部分を平清盛は考えたのです。
現代では歴史を知っているため、これがどれだけ革新的なことか分かりずらい面があります。
経済力によって武士の台頭を補助するという、特に平氏の台頭ですがこの日宋貿易によって平氏は力をつけていくのです。
武士として権力を握ったという部分でも、功績になります。
平清盛登場以前は、武士が政権の中枢に座ることなど考えられませんでした。
保元の乱・平治の乱を通じて、天皇家・藤原家の内紛に乗じて勢力を拡大した面からみても状況を的確に捉える戦略性は高かったのです。
実態は貴族政治が平氏政権に代わっただけですが、武士の台頭は他の武士たちの希望にもなっています。
年号で振り返る平清盛の生涯
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平清盛について書いてきましたが、どのような生涯を送ったのでしょう?
年号によってより深く生涯を振り返っていきます。
作家の加来耕三先生は何か物事が起こるには始まりがある、そのことを未初の萌芽と名付けていますが平清盛の生涯も同様です。
平氏に生まれていなければ、栄達は望めませんでした。平氏の中でも伊勢平氏の家系に生まれたからこそ栄達できたのです。
- 1118年(元永元年)1歳
平忠盛の嫡子(長男)として生まれる。- 1120年(保安元年)3歳
清盛の生母死去。- 1129年(大治4年)12歳
従五位下に任ぜられる。- 1132年(長承元年)15歳
父・忠盛が武士として初めて昇殿を許される。- 1135年(保延元年)18歳
父・忠盛の西国海賊追討の恩賞の譲りで従四位下を任ぜられる。- 1137年(保延3年)20歳
父・忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守を任ぜられる。- 1138年(保延4年)21歳
これより以前、高階基章(たかしなもとあき)の娘と結婚するが死別。
その後、平時子と再婚。- 1146年(久安2年)29歳
安芸守を任せられ、瀬戸内の制海権を得る。- 1147年(久安3年)30歳
祇園社で闘乱事件を起こす。- 1153年(仁平3年)36歳
父・忠盛死去し、平氏の棟梁を継ぐ。- 1156年(保元元年)39歳
保元の乱 勃発
後白河天皇側につき源義朝とともに源為義、平忠正らを討つ。勲功賞で播磨守を任じられる。- 1159年(平治元年)42歳
平治の乱 勃発
源義朝と戦い勝利。武士の王となる。- 1160年(永暦元年)43歳
後白河上皇に命じられ、新熊野神社を造営。- 1161年(応保元年)44歳
中納言に任ぜられる。後白河上皇に嫁いだ妻の妹・滋子が、皇子(高倉天皇)を生む。- 1165年(永万元年)48歳
二条天皇、崩御。- 1167年(仁安2年)50歳
太政大臣を任じられるが、3か月で辞任。- 1168年(仁安3年)51歳
熱病に苦しめられる。その後、出家する。
厳島神社を大規模に造営する。- 1169年(仁安4年)52歳
福原(現・神戸)に別荘を造営し、住まいとする。- 1170年(嘉応2年)53歳
後白河法皇を福原に迎え、中国・宋の特使と面会する。- 1173年(承安3年)56歳
大輪田泊に人工島・経が島竣工。- 1177年(治承元年)60歳
鹿ヶ谷の陰謀 発覚
平家に対立する院近臣を一掃し、後白河法皇との対立が深刻化。- 1179年(治承3年)62歳
長男・重盛死去。
清盛、後白河法皇を幽閉、院政を停止する。- 1180年(治承4年)63歳
京都から福原への遷都を断行するが、6か月で還都する。
源頼朝が伊豆で挙兵。富士川の戦いで平家軍敗走。- 1181年(治承5年)64歳
熱病に倒れ死去。
平清盛はどんな人柄だったのか
平清盛はどのような人物だったのか、歴史は勝者によって書かれますので勝者である源頼朝・義経兄弟を持ち上げます。
代表的な書物に平家物語がありますが、平氏は滅びるべくして滅んだとしているのです。
本来の人物像・性格を通じて実像を確認していきましょう。
源頼朝を生かして流罪にした
保元の乱では味方だった平清盛と源義朝ですが、平治の乱では敵味方となって平清盛が勝利します。
敗れた源義朝は、敗走途中で殺されました。
では敗軍の将の子息は生かしておいていいのか?
いいわけがありません。冷酷なようですが、親の仇でもあり生かしておいていつ復讐されるかと怯えながら過ごすことになります。
結果から見ると、平清盛は源頼朝・義経兄弟を生かして立ち上がった兄弟に平氏は倒されることになるのです。
ではなぜ助けたのか?
一度清盛も頼朝を殺そうとします。しかし殺すことに待ったをかける人が現れました。
父の後妻である池禅尼です。彼女は頼朝が若死にした自分の息子と似ているからと助命を願います。
そのような理由で生かしておくわけにはいきませんので、構わないでいると執拗に訴えてくるので根負けして助命してしまうのです。
この時代を生きる者としてはどこか甘さをを持った人だったのでしょう。
先見性を備えた一流の経営者
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清盛の代より以前から、平氏は海に生きる一族として交易を行ってきています。
経済力が基盤となって、勢力を拡大するという事実はこの時代より400年後一人の戦国武将によって実証されるのです。
織田信長は祖父の信定の代から経済力の基盤を固めて、信長の代で一気に天下統一を進めていきます。
清盛も祖父の正盛の代から経済基盤を固めてきていたため、権力を握ることができたのです。
平清盛の作品
平清盛を主人公とした大河ドラマは過去に2作品あります。
近年放送された「平清盛」と、「新・平家物語」です。
それぞれにご紹介していきますので、まだ見ていない場合は参考にしてみてください。
「新・平家物語」
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大河ドラマ10作目となる「新・平家物語」は1972年(昭和47年)に放映されました。
吉川英治の原作をもとにしており、平家の栄華と滅亡までを描き出しています。
主役である平清盛は、当時の名優仲代達也が演じているのでその演技にも注目です。
平清盛
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大河ドラマ51作品目になる「平清盛」は、2012年(平成24年)に放映されました。
完全オリジナルな構成となっており、清盛の新たな一面を描き出した作品です。
主演は松山ケンイチが演じていますので、見ていない方はぜひご覧ください。
平清盛の現在
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平清盛はそれほど深く知られている存在ではありません。注目を集めるのは戦国時代の武将たちであり、そのほかだと幕末の志士たちが人気です。
では、平清盛がしたことは現代に何も残っていないのか?影響を与えたことはないのか?
平清盛が政権を取ったことで、武士が台頭する機会が作られたと言えるので実質は公家の政権になっていましたが武士のパイオニアです。
平清盛が現在に残した功績(伝わっていること)
平清盛について知られていること、あまり知られていないことをご紹介します。
天皇のご落胤説(らくいん)
武士として初めて太政大臣になった平清盛ですが、今までなったことがないのになぜ清盛は太政大臣となれたのか?
ここには次のような説が存在しているのでご紹介します。それは、天皇ご落胤説です。
ご落胤説は権力者がよく使う宣伝であり、豊臣秀吉もご落胤だと宣伝しています。
平清盛のご落胤説は宣伝ではなく、実際にありえたのではないかと考えられる話です。
父親とされているのが白河上皇という人物で、妊娠した祇園女御を平忠盛に譲って生まれたのが清盛だとされています。
真実はわかりませんが、出世には血統も重要です。
平清盛の家系
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平清盛の家系は現代まで繋がっているのでしょうか?
壇ノ浦の合戦で一族が滅亡したわけではなく、生き残った一族もいます。
しかし清盛の子孫ではなく、他の血筋の平氏です。次の図をご覧ください。
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清盛の血統はほとんどが壇ノ浦を境に死んでいます。
唯一清盛の弟である頼盛は生き残り、源頼朝が保護して子孫も存在しているという状態です。
平清盛 まとめ
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平清盛について詳しく見てきましたが、読まれて平清盛について深く知ることができましたか?
歴史は新発見があれば、塗り替えられていきます。
古代の話ですが、出雲は大和朝廷前後では栄えていなかったといわれてきましたが近年銅鐸・銅剣が大量に発見されているのです。
どこに何が眠っているか分からない、そこが歴史の魅力でしょう。
平清盛についても新発見が今後あるかもしれません。その日を楽しみにしていきましょう。