「判官びいき」という言葉を聞いたことがありますか?
この言葉は弱者や薄幸の人物を評するときに使います。語源となった人物は源義経(みなもとの よしつね)です。
彼は瞬く間に平氏を滅ぼして、自身もその後すぐに追い込まれて自害します。生きていたという伝説もありますが、この伝説も判官びいきです。
北海道には義経伝説が残されていますが、真実は残党が海を渡ったということでしょう。
今回は悲劇の人と言われる源義経についてご紹介していきます。
源義経(みなもとの よしつね)とは
出典元:こちら
源義経は父源義朝、母は常盤御前の元に生まれています。
源九郎義経と名乗っており、これが正式な名前です。
これは最後まで通した名前ですが、なぜ仮名である九郎のままだったのか?
例えば兄の源頼朝は征夷大将軍となって幕府を開きます。
官位は征夷大将軍であり、上様と仰がれる存在です。
なぜ同じ一族であり、兄弟でもある義経は九郎のままだったのか?のちに検非違使に任ぜられますが、ここで判官びいきが登場します。
つまり、義経は平氏を滅ぼしたのに兄に疎まれて自害させられた。この考え方は視点が大きくズレています。
義経が犯したミス
当時の状況や権力を考えていけば、義経はミスをいくつか犯しているのです。
三種の神器を紛失
最も大きなミスは、三種の神器 を「壇ノ浦の戦い」の際に1つ紛失したことになります。
壇ノ浦の戦いで、平氏は殆んど壊滅したのだからいいというわけではありません。重要な交渉アイテムが三種の神器だったのです。
当時鎌倉の頼朝と京の後白河法皇は主導権争いを演じています。
※興味のある方は井沢元彦さんの逆説の日本史5をお読みください。ここでは義経のミスについて集中してお話しします。
頼朝は政治家として、三種の神器は必須でした。義経にも厳命しています。しかし義経は2つまで取り返しましたが、1つを失ってしまいます。
三種の神器は3つあるから三種の神器なのであり、1つ失っては意味がありません。しかも後白河法皇側へ有利な状況となります。
三種の神器は天皇家が代々受け継いできたものであり、代替わりがあれば次の世代へ渡されるものです。
無くされたとなったら、交渉している側としては不利になります。無事に取り返したら有利に交渉が進められるのに、逆の状況としてしまった。
これが義経の犯した大きなミスです。義経は平氏を滅ぼせばいいと考えていたのでしょう。
戦術面で優れた能力を発揮していました。だからこそ短期間に平氏を倒すことができたのです。
ここが義経の限界でもあり、戦争には強くても政治には弱く何が重要なのか分かりませんでした。
似たようなコンビ
歴史を見ると、似たようなコンビがいくつかあります。
- 足利尊氏&直義兄弟
- 西郷隆盛&大久保利通
など有名なコンビです。
いずれの場合も、一段落ついた時から反目して争っています。1人の人物が2役出来ればいいのですが、そうもいきません。
頼朝・義経兄弟も同じように反目していきます。初めから頼朝は義経を信頼してはいなかった可能性もあるでしょう。
義経は家臣としてではなく、あくまでも兄として頼朝に接します。ここも義経の落ち度と言えるのです。
腰越状という弁明のために書かれた書には、義経の甘さがにじみ出ています。
この後、義経は奥州を再び頼りますが最大の保護者だった藤原秀衡が死んだことによって、義経自身保護者を失うことになるのです。
歴史は役割を果たした人間に過酷な道を提供してきます。義経は奥州平泉にて藤原泰衡が攻めてきて自害するのです。
源義経はいつ活躍した人物なのか?
出典元:こちら
当時の状況を簡単に抑えておきましょう。
義経が生まれた当時、源氏と平氏は争っており平氏に軍配が上がります。
天皇家としては、どちらの力も必要としていましたが力は拮抗していた方がよいと考えていました。
そもそも武士は卑しい存在であり、犬も同然と考えていたのです。これは天皇家だけではなく公家も同じと言えます。
荘園の管理人であり、汚れ仕事をさせられる存在が武士です。
武士の地位は上昇していくことになりますが、この時代はまだ忍耐の時代でした。
保元の乱・平治の乱を経て、平氏が力を得ます。敗北した源氏には監視の目が注がれ、忍耐の日々が続くのです。
頼朝・義経の父である義朝は郎党だった長田氏の手によって殺されています。
天皇家は院政を敷いており、後白河天皇と崇徳上皇が対立していました。
摂関家は忠通と頼長兄弟が対立しており、この2つが重なったことで天下を2分する状況になっていたのです。
源義経は何をしたことで有名なのか?
歴史を見ていくと、時代を見通したかのように転換点が現れます。
それはその時代に生きた人々の知恵の結晶であり、悩み考えたからこそ絞り出されたアイディアなのです。
革命的な戦法=馬の集団運用
義経は平氏を壇ノ浦に追い詰めて滅ぼしたことが有名ですが、実は軍事面に革命的な戦法を編み出しています。
当時馬は時代劇に登場するような西洋馬ではなく、ポニーのような大きさの馬でした。
馬は部隊司令官が乗る、言わばシンボル的な存在でしたがこれは戦国時代まで続きます。
馬の活用方法はシンボルの役割だけであり、騎乗して戦うこともありましたが集団運用は実践されたこともなかったのです。
義経は馬の集団運用を実行しています。実行された戦は一の谷の合戦です。
戦争にはいくつかポイントがありますが、その1つにスピードがあります。
第二次世界大戦にてドイツが電撃戦という戦法を実行しました。これは古代から運用は違いますが取り入れられています。
相手が考えつくような戦い方では、戦線が膠着してしまいますが想定外の戦法を取られると戦線が大きく動くのです。
戦争において、発想力と実行力は名将の必須条件でしょう。義経は名将だと言えます。
一の谷で地形を考えると、海と山に挟まれた土地であり山からの奇襲など想像すらできません。
義経は馬の集団運用で山側からの奇襲を行い、平氏側に勝利するのです。
その後壇ノ浦の合戦で平氏を破って、源氏の勝利を決定づけます。
年号で振り返る源義経の生涯
年号で源義経を振り返っていきますが、義経は何歳で亡くなったと言われているのか知っていますか?
31歳です。
平氏追討に活躍した期間が人生のクライマックスであり、その後は没落していく運命でした。
わずか数年の絶頂期、波乱の人生を見ていきましょう。
- 1159年(平治元年)源義経誕生
- 1160年(永暦元年)源義朝尾張で長田氏によって殺される
- 1165年(永万元年)鞍馬寺へ入れられることとなる
- 1174年(承安4年)伝承ではこの前後で奥州藤原氏を頼って鞍馬寺を出たと言われている
- 1180年(治承4年)奥州を出て、兄の頼朝と対面する
- 1183年(寿永2年)源義仲追討を目的に鎌倉を出陣
- 1184年(元暦元年)源義仲を打ち破り、同年一の谷にて平氏をも破る。鎌倉に無断で検非違使・左衛門少尉に任官
- 1185年(文治元年)平氏追討のため京を出陣。屋島の合戦・壇ノ浦の合戦により平氏滅亡。鎌倉から無断任官の叱責を受ける。更には頼朝より勘当を言い渡され、弁明するが聞き入れられず。頼朝追討の院宣を受け取る。鎌倉より大軍が義経追討に向けられ、義経船で逃れようとするが遭難する
- 1186年(文治2年)義経追討の院宣鎌倉に届く。
- 1187年(文治3年)奥州藤原氏にも義経追討の院宣が届く。藤原秀衡死去
- 1189年(文治5年)義経衣川にて自害。享年31歳
源義経はどんな人柄だったのか
出典元:こちら
短い活躍期間でしたが、源義経には人気があります。なぜなのでしょう?
歴史を考えていくと、人気があると思われる人物は思いつきません。義経が唯一です。
現代でいうところの長嶋茂雄、美空ひばりのような感覚の人気が義経にはありました。
人々が窮地に陥っているときに救ってくれた、こういう感覚があるからこそ人気があったのです。
ではこのほかに人柄や人物像を探っていきます。
義経は美形?それともブサイク?
出典元:こちら
義経は伝えられている伝承によると、美形だったと言われていますがブサイク説もあります。
背が低く、出っ歯で、髭が赤いといった容姿を伝えている文献も存在するのです。
ではどちらなのでしょうか?
もしブサイクだったとしたら、ショックを受ける人もいるかもしれません。
ところで自分と同じ名前の人に会ったことがあるでしょうか?
同じ職場だった場合、呼ばれても人違いという場合もあります。
上記の背が低く、出っ歯で、髭が赤いという特徴はもう一人の義経、山本兵衛尉義経のことではないかと言われています。
真相は今となっては分かりません。イメージとして貴公子然とした義経は、源義経だと考えておきましょう。
チンギス・ハーンとなったという話はどうやってできたのか?
義経が奥州衣川で死なずに、北海道に渡り更に大陸に行きチンギス・ハーンになったという話があります。
チンギス・ハーンはモンゴルから瞬く間にヨーロッパまで席捲するほどの偉大な人物です。
この人物が義経の後身だという説がどうして生まれたのか?
この説が大きくなったのが明治時代です。当時、列強の国々に負けないように苦心していた日本。
現実的に言語が違う国へ行き、わずかな期間で国々を制圧できるのか?この説が矛盾を孕んでいることは明白でしょう。
源義経の作品
源義経に関するドラマ・マンガ・ゲームは主人公として登場していなくても多くあります。
有名なものから、マイナーな作品までご紹介していくので興味がある人はぜひ手に取ってみましょう。
大河ドラマ「義経」
出典元:こちら
2018年で芸能界を引退した滝沢秀明さんが主演の義経を演じた大河ドラマが「義経」です。
源氏・平氏とその周囲の人々の葛藤を描いた作品であり、芸能界を引退した滝沢秀明さんの出演作ですので観ていない方は観てみましょう。
遮那王義経
出典元:こちら
月刊マガジンで2000年~2007年まで連載され、続編も2007年~2015年まで連載されていた「遮那王義経」というマンガを知っていますか?
義経と瓜二つの少年が、義経として活躍する作品です。信長協奏曲と似たような感じですが、「遮那王義経」は本物の義経は死んでしまいます。
主人公漂太は義経として、活躍していくストーリーが面白いです。
源義経の現在
出典元:こちら
源義経は現在でも人気があり、上記でご紹介したように主人公として登場しているものも多くあります。
人々はいつまでもヒーローを求めるのであり、義経は今でも平氏を滅ぼした正義の味方のように思われているのでしょう。
源義経が現在に残した功績(伝わっていること)
源義経が現代に残した功績を考えてみましたが、功績と言えるものは考えつきませんでした。
そこで、義経を題材に考えるべきことをお話しします。これは現代においても重要なことです。
戦術と戦略
上記でも触れていますが、義経は確かに戦術面で卓越した天才性を発揮しています。
しかし、これはあくまで戦術面であり戦略面で考えることは苦手だったようです。
功績とは言えませんが、教訓として学べることのように思えます。
義経は優れた軍人だったということです。まれに両方を兼ね備えた人物もいますが、義経は戦略眼がありませんでした。
あくまで頼朝に対して甘えてしまい、滅びの道を進んだ義経から戦略眼の重要性を認識しましょう。
源義経の家系
出典元:こちら
源義経の子孫は公式にはいないと言えます。
愛妾の静御前が男児を出産すると即座に殺されていることからも、子孫は絶やされてしまっているのです。
伝承では子孫がいると言われていますが、判官贔屓の延長線上にある話だと考えられます。
まとめ
源義経は短い生涯の中で、強く輝く期間があり役目を終えるのと同時に命も絶えてしまいました。
歴史の中には役目を担わされたかのような人物が度々登場します。
人物を知ることで、自分にはどのような役目があるのか?考える機会になるでしょう。