作り上げたものを維持していくことには、多大な労力が必要です。
会社経営者は自身の会社を維持するために、戦略を考えて実行します。
作り上げた組織が260年続いた徳川幕府は、経営者として参考にするべき部分が多いでしょう。
経営者だけではなく、一般的にも徳川家康は多くの日本人と共通点が見いだせます。
徳川家康とはどのような人物だったのか?実像を探っていきますので、お楽しみにしていてください。
徳川家康とは
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「人の一生は、重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。急ぐべからず」という有名な言葉がありますが、これは徳川家康が言ったと確認はできていません。
しかし、家康の人生を追っていくと正にこの言葉通りの人生を歩んでいます。まずはその生まれた時の環境からお話ししていきましょう。
家康は三河の戦国大名松平家の松平広忠、母は於大の方の間に生まれています。
三河松平家は14もの支族が確認されており、家康が生まれた松平家は安祥松平家です。
この家は初めから宗家だったわけではありませんが、後々宗家化して定着します。
他の松平家は以下のようになっていますので、ご確認ください。ちなみに安祥松平家を含めていない状態で14家あります。
- 竹谷松平家
- 形原松平家
- 大草松平家
- 五井松平家
- 深溝松平家
- 能見松平家
- 長沢松平家
- 大給松平家
- 瀧脇松平家
- 福釜松平家
- 桜井松平家
- 東条松平家
- 藤井松平家
- 三木松平家
豪族が勢力を拡大させていくために一族を分家させていくということは、他の豪族・大名家でも見られています。
有名なところで毛利家・上杉謙信の出た長尾家・武田家・足利家などです。
この分家戦略にはメリットとデメリットがありますが、メリットからお話ししていきます。
メリット
メリットとしては、家系の維持ができる部分が大きいことと、勢力を拡大させることができるという点です。
現在では家系を途絶えさせることに、そこまでこだわりはありませんが近世まで家系存続は一番大切なものでした。
家系が滅べば、家がなくなるということであり積み上げてきた土地・財産は全て無となってしまいます。
この点から言っても、松平家は家系を途絶えさせることなく存続させるという点で成功しているのです。
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勢力の拡大についても同じことが言えます。勢力を拡大させるためには、経済力がものを言いますがすぐに充実させることはできません。
経済力の基盤となるものは、この当時は土地と人員です。土地は開墾し、開墾した土地を広げるために人員は必須条件と言えます。
1つの家から、勢力を拡大させるために子どもを分家させて各々土地を広げていくということが代々行われていきました。
年月をかけて勢力を拡大させていくという地道なものです。
この結果、松平家は勢力を広げて家康の祖父松平清康の代で一時は三河1国を手中にします。
デメリット
デメリットも合わせてお伝えしますが、デメリットとしては分家が独立心を持って内部的に争うことです。
例はいくらでも挙げられますが、代表的な例は甲斐武田家・毛利家・織田家など戦国大名として有力な家でも勢力争いは珍しくありません。
松平家でも争いは避けられず、最後に宗家である家康の家がまとめ上げました。
家康はなぜ徳川を名乗ったのか?松平という家名がありながら、徳川に改姓したのかという疑問があります。
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ここには三河1国をまとめ上げて、結束させるための権威付けが必要だとの判断だったと考えられるでしょう。
例えば三河という国の国主は、三河守に朝廷から任官されて初めて正式な国主となれます。
しかしこの国主任官には障害があり、血統で任官の前例がなければ任官できないという不文律があるのです。
松平氏の場合、在原姓だったためそのままでは任官できません。ここで登場するのが松平家の始祖、松平親氏です。
彼は松平家に入り婿として入っています。この親氏の血筋が三河守任官への突破口となりました。
新田義貞が有名な新田家に連なっている、つまりは源氏の家系だと朝廷に働きかけたのです。
そしてさらに藤原姓の任官者が家系上にいたので、無事に三河守任官がなされます。
源氏の家系かどうか、この辺りで怪しいですが逆説的にそのようなマイナーな血統を普通なら選ばないのではないかとも思えます。
当時は足利将軍家が健在であり、足利家の血統を名乗るのは選択肢としてはあり得ません。
では藤原姓・平性?これらの選択はあり得ますが、インパクトに欠けます。
源姓でインパクトがあるのは、この当時であれば新田だったのではないでしょうか?
あくまでも推測ですので、公式には徳川家は新田家からの分かれと言うことになっています。
徳川家康はいつ活躍した人物なのか?
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織田信長が天下布武を掲げて、道半ばで倒され豊臣秀吉が天下統一を成し遂げその死後に家康は江戸幕府を開きます。
家康は75歳で亡くなっていますが、天下を取った慶長5年(1600年)当時は60歳です。
今よりも寿命が短い時代に長命を保ったからこそ、天下が取れたとも言えるでしょう。
しかしその生涯を追っていくと、前半部分において不幸の連続だったことが分かります。
3歳で母親と離れ離れになり、6歳で今川家の人質になるところを叔父である戸田康光が裏切って織田家へと行くことになりました。
その後今川家へ人質として送られて、松平元信として元服します。
織田家・今川家への人質隷属期間は15年です。後半は今川家の武将として、一族として優遇されていましたが心中は独立を考えていたでしょう。
幼少期から青年期に人質として過ごした期間は、家康に忍耐力を与えました。
耐えて好機をものにする、独立の起点となった清州同盟も織田信長に協力しながら次第に組み入れられつつも耐えます。
三河から駿河・遠江へと版図を広げて、信長亡き後秀吉がまとめ上げるまでに甲斐・信濃も版図に加え領土は拡大の一途を辿るのです。
北条家が滅ぼされ、家康へ関東8か国への移封が伝えられます。この時までの石高は200万石、秀吉を除いた戦国大名の中で最大です。
三河一国からここまで成長できたのも、忍耐力があったからでしょう。最後には天下を取り、日本を支配下に置きます。
幕藩体制は260年間続きますので、家康が蒔いた種はそれだけ長く寿命を保ったのです。
徳川家康は何をしたことで有名なのか?
徳川家康はどのようなことで有名なのか?大きく分けると3つに分類できるでしょう。
- 戦国武将として織田信長との同盟を、信長の死まで全うしたこと。
- 天下人となったこと
- 260年続く江戸幕府の礎を築いたこと
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①戦国武将として織田信長との同盟を、信長の死まで全うしたこと。
1からお話していきますと、この同盟は後半家臣化になっていきます。
信長の力が増大するのと比例して、家康との同盟というより家臣としての扱いが増えていくのです。
同盟はいつ破られたとしても、不思議ではありません。戦国時代ですから、旗色が悪くなれば有利な選択をしても文句はないのです。
家康にしても幾度か危機が訪れますが、最大の危機は信長包囲網を形成された元亀年間でしょう。
家康の領国、三河・遠江は包囲網の最前線であり、武田信玄と領土を接している状況です。
信玄は着々と上洛をするために、駿河・信濃方面から進行し三方ヶ原で徳川軍と合戦となります。
家康としては当時の居城である岡崎城から出る必要性はなく、籠城して過ぎ去るのを待ってもよかったはずです。
相手は戦国最強と呼ばれる信玄なので、無理に戦っても被害が増えてしまいます。
むしろ籠城してやり過ごされる方が、信玄としては嫌だったと思われるのです。信玄としては家康を叩いておきたいと考えていたでしょう。
後々お話ししますが、家康は本来忍耐強い性格ではなかったと、筆者は考えています。
ここでもその性格の一端が、顔を覗かせるのです。領土の中を何もせずに通過されるのは武士の名折れ、家康は出陣して結果は無残な敗北となります。
しかし考えてみてください。信長包囲網は、信長にとって綱渡り状態でありどこかにほころびが出た場合、崩壊してしまう危うさを孕んでいました。
家康が同盟を破棄していれば、間違いなく信長は滅ぼされていたと思います。
信玄の病死は計算外でしたが、家康が同盟を破棄していなかったからこそ信玄を食い止める時間稼ぎにはなっていました。
家康の評価として、律義者というものがありますがこうして同盟を維持することから定着した評価です。
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②天下人となったこと
2については、関ヶ原の合戦に勝利したことが大きかったと言えます。
この当時、家康の立場は豊臣家内部でナンバー2です。トップではありませんが、ポジション的には安泰な立場だと言えます。
政治的なことは家康に任せられており、石田三成がその手足となって実務をこなしている状況でした。
ではなぜ家康が天下を取ったのか?
ここには秀吉死後の権力争いが関係しています。
俗に文治派と武断派という分け方をして区別されていますが、前者の代表は石田三成、後者は加藤清正です。
大きな違いはあったのか?
領国経営を見る限り、能力的に大きな違いはありません。
秀吉の目に敵った三成は、秀吉の死まで重用されていました。対して清正は秀吉の親戚筋ということで、身内の扱いを受けていました。
能力的には差がないにも関わらずに、秀吉は使いたいか使いたくないかで判断していたのではないでしょうか?
秀吉の死後に不満が噴出し、家康は争いを仲介する立場となります。
悔やまれるのが、秀吉の実弟秀長が生きていればこの争いは起きなかっただろうということです。
秀長は秀吉と表裏一体であり、秀吉が死んだとしても秀長が生きていたなら豊臣家は安泰だったでしょう。
しかし、秀長は死んでおり調停の役目は家康がすることになるのです。頼られれば、悪い気がしません。
しかも何が原因となっているのか、その問題さえ片付けば終わりです。
原因は三成であり、三成を除いて武断派の要望を叶えれば争いは収まります。
この一連の流れの中で起きたのが、関ヶ原の合戦だと筆者は考えているのです。
天下を取れたのは、そうしなければ世の中が収まらなかったからでしょう。家康を全面的に評価してはいませんが、致し方がなかったと言えます。
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③260年続く江戸幕府の礎を築いたこと
3については知られている内容なので、簡潔にお話していきますが徳川幕府は260年続き奇しくも足利幕府と同じく15代で終焉を迎えるのです。
しかし、260年続く体制とは考えてみるとものすごく長く感じます。
ソ連は69年間で消滅していますし、中には短命の国は数知れずあるのです。
そうした中で、国が滅びたわけではありませんが260年同じ体制が継続したというのは大きな功績でしょう。
関ヶ原の合戦に勝利したとはいえ、油断できる状況ではありませんでした。
豊臣家は存続しており、恩顧の大名は多くいるという中での難しい局面です。
下手に刺激すれば今度は家康が滅ぼされる危険もあります。まずは体制作りから取り掛かるのです。
征夷大将軍任官、そして3年後には隠居して大御所となり2重権力構造を作る、簡単には崩せない強固な城を作り上げます。
総仕上げとして豊臣家には滅んでもらわなければなりません。なんといっても秀吉の遺児、秀頼が成長してきていたからです。
豊臣家にとって不幸だったのは、しっかりとした司令塔がいなかった点にあります。
淀君では家康の相手にはならず、家臣も役不足の2流・3流がほとんどだったのです。
石田三成クラスの人材がいれば、少しは状況が変わったのでしょうが他の豊臣恩顧の大名はわが身が大事であり余裕がありません。
最終的に大阪冬の陣・夏の陣で豊臣家を滅ぼします。ここに徳川につくか、豊臣につくかの最終的な分岐点がありましたが時代は徳川を求めたのです。
誰もが自分が大事であり、いかに恩を受けたからと言っても犠牲にしてまで返そうとはなかなか思えないものでしょう。
何より、世論は平和を求めていました。もう戦争は嫌だと、戦後の日本みたいな様相だったのです。
時代の求めに応じて、流れに乗り最後に天下を統一した。これが徳川家康の実像です。
年号で振り返る徳川家康の生涯
徳川家康について簡単に振り返っていきます。
年表を確認していきましょう。
- 1543年(天文11年) 岡崎城にて誕生
- 1547年(天文16年) 今川氏に人質として送られるが、叔父の戸田氏に裏切られて織田氏へ人質として送られる
- 1555年(天文24年) 織田氏との人質交換で、今川氏の元へ送られて元服。次郎三郎元信と名乗る。
- 1560年(永禄3年) 大高城へ兵糧を届けたが、今川義元が織田信長に討ち取られたため撤退
- 1562年(永禄5年) 今川氏を見限り、織田信長と同盟を結ぶ(清州同盟)
- 1564年(永禄7年) 三河にて一向一揆が起こる。苦戦するも無事鎮圧する
- 1566年(永禄9年) 朝廷へ改姓を働きかけて、徳川姓となる
- 1572年(元亀2年) 武田信玄が西上のために三河へ侵攻、三方ヶ原で合戦となるも惨敗する
- 1582年(天正10年) 織田信長が本能寺で明智光秀に謀反を起こされ死亡。同年甲斐・信濃へ侵攻し、領国化する
- 1583年(天正11年) 小牧長久手にて後の豊臣秀吉と合戦となるも、織田信雄の離脱により和睦となる
- 1590年(天正18年) 北条討伐に参加し、北条氏降伏。豊臣秀吉による天下統一完成。同年家康北条氏旧領へと移封となる
- 1598年(慶長3年) 豊臣家内で5大老の一人となる、筆頭の地位であり、同年の豊臣秀吉死去後は実質的にトップとなる。
- 1600年(慶長5年) 関ヶ原の合戦で東軍勝利。家康の天下への道が開ける、豊臣家は摂津・河内・和泉3か国の1地方大名に転落
- 1603年(慶長8年) 征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く
- 1605年(慶長10年) 征夷大将軍を嫡男である徳川秀忠に譲り、自身は大御所として2元政治を開始
- 1614年(慶長19年) 大阪冬の陣で豊臣氏と対峙、持久戦で締め上げて講和となる
- 1615年(慶長20年) 大坂夏の陣で豊臣氏滅亡、家康による天下統一完成
- 1616年(元和2年) 75歳にて死去(胃がん説が有力)
徳川家康はどんな人柄だったのか
人のイメージは他社から見て、受けた印象が大きく作用します。
家康に関して言えば、タヌキ親父というイメージが付いていますが果たして正しいのでしょうか?
家康の実像に迫るエピソードを探っていきます。
日本人の性格に多い家康型
日本人の性格として、最も顕著な性格とはどのようなものなのか想像したことはありますか?
実はあまりいい性格はしていません。分かりやすく言うと、政治家が典型的な例です。
他人の足を引っ張る、自分の身が大事、身内が大事など政治家こそ日本人の性格の縮図だと言えます。
あなたの周りにも陰湿な性格の人物がいませんか?その性格は家康が原点です。
リアリスト家康
家康は先を予想して動く人物ではありませんでした。
よく言えば堅実であり、悪く言えば面白みがないのです。
家康の生涯を振り返ると、そのことがよくわかります。どこかで冒険したことがあるのか?
着実に領土を増やして、まるで農家が開墾して畑を広げていくように。
こうした着実な人物だと、失敗も少なく失敗したとしてもダメージが少なくて済みます。
しかし、友達になれるかと言えば筆者はなれません。人間的に面白みがないので。
徳川家康の作品
徳川家康は大河ドラマ・時代劇・ゲーム・小説・アニメと幅広く登場しています。
その中からピックアップしてご紹介しますので、知らないものがあったら見てみましょう。
徳川家康
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1950年から北海道新聞で連載され、その後全国的に広まっていった山岡荘八の徳川家康。この小説を原作としたのがこちらの徳川家康です。
主役の家康役は滝田栄さんとなっています。それまでイメージされていた家康像とは違った家康となっており、おすすめです。
葵 徳川三代
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関ヶ原の合戦後の家康・秀忠・家光の三代を描いた大河ドラマです。家康役は津川雅彦さん、秀忠役は西田敏行さん、家光役は尾上辰之助さんでした。
関ヶ原の合戦後から、どのように天下を治めていったのかが年表形式のドラマ進行なのでよくわかります。
徳川家康の現在(その後の今)
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家康は幕末の際に、悪いイメージを植え付けられて現在でもそれは尾を引いています。
例えば、陰謀家・タヌキ親父というのは一例です。
前代の創始者を悪く言い、自分たちの正当性を訴える行為はどこの国でもあります。
幕末はテロの嵐だったので、正当性を確保しなければなりませんでした。
幕末には徳川慶喜が最後の将軍として、大政奉還を行っています。将軍としてはイマイチな人物でしたが、政治家としては賢明な人物でしょう。
しかし、家康は成功者とはみなされますが人気はありません。
むしろ嫌われていると言った方がいいレベルです。なぜなのでしょう?
逆に人気の高い武将と比べると、より際立って嫌われる理由が分かります。
例えば織田信長と比べると、カリスマ性・独創力などどこをとっても家康は地味です。
よく言えば堅実であり、悪く言えば地味すぎると言えます。これでは人気が出ません。
あくまでも現代でどう見られているのかということであり、時代によって評価は変わるはずです。
天下を取った人物だということを、もう一度認識してください。
徳川家康が現在に残した功績(伝わっていること)
家康にはいくつか伝説的な部分があることを知っていますか?
これは功績ではありませんが、1人の男の変わりようがある説となっているのです。
徳川家康 影武者説
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マンガにも影武者徳川家康というものがあります。
なぜこのような話が生まれたのか?そこには理由があります。
「史疑徳川家康事績」という本が、村岡素一郎という人物によってまとめられたのは明治時代のこと。
一例として、人質として今川氏へ送られたはずの家康がお金によって売られたという話もあります。
また、家康は三方ヶ原で死んでいるのではないか?というもはや都市伝説的な話もあるのです。
三方ヶ原でなぜ死んでいたと言われているのかは、家康の絵にあります。
この時家康は恐怖のあまり脱糞したと伝えられており、この屈辱を忘れないために絵を描かせたということです。
ということはこの絵を描いている間、あたりにはものすごい臭いが漂っていたことでしょう。
ありえる状況でしょうか?部下への威厳も何もありません。
この時家康は生き残ったと知らしめるために描かれた、とは考えられませんか?
この描かれた家康は細いです。のちに肥満体ともいえる体躯となり得るのか?
ここの部分は永遠の謎ですが、DNA鑑定をして子孫と比べることができればはっきりしますが不可能でしょう。
謎はあればあるほど面白いものです。いつか解き明かされる日が来るかもしれません。
江戸(東京)を大都市にした
現在の東京が住みやすい都市として、また日本の首都として機能しているのも家康が街づくりを丁寧に行ったからこそです。
家康が秀吉によって移封される前、そこには原野が広がる湿地帯しかありませんでした。
さらに言えば、飲み水すら確保が難しい状況だったのです。現在の東京より海岸線が迫っており、海水が多く混入していました。
水源の確保、住む場所の整備、こうして何とか人が住めるようになっても人が来なければ発展しません。
大都市となるには、人々が集い商業が発展していかなければ大きくならないのです。
粘り強く呼びかけて、商人などを呼び込みます。秀吉の死後、天下人となったことでも街は発展していくのです。
大名たちが住めるように街を整備し、家康死後も発展し続けて現在の東京が出来上がりました。
家康は東京の生みの親と言えるでしょう。
徳川家康の家系の現在
幕末を迎えて、徳川幕府は終焉を迎えますがその後徳川家はどうなったのでしょう?
家系が途絶えたわけではありません。家康の直系の子孫は、江戸時代に途絶えましたが御三家の紀伊家から吉宗を迎えています。
有名な暴れん坊将軍、8代将軍徳川吉宗です。明治以後も各御三家・宗家・徳川慶喜家と現在まで存続しています。
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徳川家康まとめ
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征夷大将軍として幕府を開いた人間は3人しかいません。源頼朝・足利尊氏・徳川家康と、初代将軍として歴史に名を留めています。
特に家康は現在の愛知県が生んだ3天下人の一人でもあるのです。
華麗さも独創性もないかもしれませんが、こういう生き方もあると知る機会になれれば幸いに思います。