浜田省吾の現在。名曲の誕生秘話や苦境からトップシンガーへの岐路とは。素顔ってどんな人?

浜田省吾 プロデビュー

出典先:こちら

バンドとソロで2度デビューを果たす浜田省吾

広島に戻った「浜田省吾」さんはすぐに「広島フォーク村」の音楽仲間と共にロックバンド愛奴(アイド)」を結成します。

最初の担当パートはなんとドラム!

バンド結成の際にドラムとキーボードだけが決まらず、ジャンケンの結果、「浜田省吾」さんが「ドラム」担当となりました。今となってはものすごく意外な組み合わせですよね。全く経験のないパートだったためにウェイターのアルバイトをしながらバンド練習に打ち込んだそうです。

1度目のデビューを迎え…

愛奴

出典先:こちら

翌年の1974年にバンド「愛奴」のメンバーとして再び上京した「浜田省吾」さん。上京してすぐに人気ミュージシャンである「吉田拓郎」さんの全国ツアーのバック・バンドに参加します。

ドラム経験はたった3ヶ月というなかでここから必死の努力で練習し、ツアーに間に合わせたそうです。

『ミュージック・フェア』などのテレビにも出演。しかしやはり演奏技術が足りず、人気曲であった「落陽」を披露するときには「拓郎」さんが弾き語りで対応したそうです。その後もレコーディングなども経験し、実力をつけていきます。

そして1975年5月「愛奴」としてCBSソニーからアルバムとシングルの同時リリースでデビューを飾ります。しかもシングルは浜田さんが作った「二人の夏」でした。当時、そのサウンドや方向性から会社では猛プッシュをしました。しかしふたを開けてみると全く売れず惨敗という結果になってしまいました。

こちらはその「愛奴」のデビューシングルの音源になります。

愛奴/二人の夏 (1975年)

実際には当初からメンバーそれぞれの音楽の志向はバラバラでバンドには統一されたスタイルがありませんでした。

そんな中で浜田さんは多くの楽曲を手掛け、ソングライティングの自信につながりました。シンガーソングライターへの憧れもあったことから同年9月に「愛奴」を脱退するのでした。

 

 

念願かなったソロデビュー

生まれたところを遠く離れて

出典先:こちら

バンドの脱退後は音楽活動を続けながら様々なアルバイトをして生計を立てていました。そして一年後の1976年4月アルバム「生まれたところを遠く離れて」とシングル「路地裏の少年」でソロデビューを果たします。このデビュー時からサングラスをトレードマークとしてつけています。

こちらはソロデビュー曲である「路地裏の少年」のライブ映像です。

浜田省吾 『路地裏の少年 (ON THE ROAD "FILMS")』

ソロ初ライブは同年4月5日「渋谷屋根裏」で行いましたが、予算の都合上、生ギター1本のスタイルで船出をし、そのまま全国でのライブ行脚を始めます。ロック志向の「浜田」さんとしては不本意だったとのこと。

デビュー後すぐに同時期にデビューした「矢沢永吉」さんのフィルムコンサートの前座やアイドル歌手時代だった「竹内まりや」さんとジョイント・コンサートも行ったそうです。他にもレコード店の店頭やスーパーマーケットの催し、「流し」のようにバーのカウンターの中でも歌いました。

地方のバンドと一緒になってステージに出たりとなりふり構わず歌わせてもらえる所であればどこでも歌うスタンスで望みました。しかし実際はこの全国巡業で各場所での観客は数十人から数百人程度だったそうです。この地道なライブ活動によって確実にファンを獲得していきました。

 

 

浜田省吾 デビューからの暗黒期

デビュー時に求められたスタイルは「ポップなメロディーメイカー」というものでした。大人なロックであるジャンル「AOR」路線として売り出していこうと会社の方針は固まっていたとのこと。しかしその路線は本望ではなく、言われるがまま曲作りをしていたそうです。

その結果、セールスにはつながらず、苦悩と挫折の繰り返しは精神にも大きな影響を与えます。「曲は書けるが詞が全く書けない失語症のような状態」というところまで追いつめられていました。

1978年から放映が開始されたTBS系列の「ザ・ベストテン」などを見ては後輩である「原田真二」さんや「世良公則&ツイスト」さんの活躍で「あー、俺の時代はやっぱ来ないまま終わるのかなあ」と感じていたそうです。動画は「光と影の季節」のMVのになります。

浜田省吾 『光と影の季節 Re-edit 2008 (ON THE ROAD 2005-2007 "My First Love")』

そのため、1970年代の初期の作品に対して、「5枚目までのアルバムは全部廃盤にして欲しい」と語っています。

 

 

結婚。そしてブレイクへ

そんな中でデビュー2年後の1978年に25歳で一般の女性の方と結婚されました。

実はこの結婚相手の方はデビューアルバムの裏ジャケットに浜田さんと共に腕を組む写真で登場しています。

当時は自身のレコード売上よりも他の歌手への楽曲提供での収入が多かったそうです。その費用で婚約指輪や結婚式、初めての海外旅行となったハワイへの新婚旅行の資金にしたとのことです。

大物スターへ楽曲提供

「ホリプロ」所属時代には楽曲提供を「山口百恵」さんや「和田アキ子」さん、「甲斐よしひろ」さん、「松田優作」さんなどといった大物スターにしていました。

翌年の1979年7月、「日清カップヌードル」のCMソングとなった「風を感じて」というシングルがオリコンで最高位25位となり売り上げ10万枚のヒットとなりました。このヒットが大きな転機になり、自分の表現したい音楽を見つけることができたそうです。

当時のCMの映像がこちら。

カップヌードル 風を感じて

ついに見つけた自分のスタイルで戦い始める浜田省吾

「風を感じて」のヒットにより自分のスタイルを見出し始めた「浜田省吾」さん。

1980年1月から9月まで、文化放送の深夜番組セイ!ヤング月曜日担当のDJを務めます。同年の10月には6thアルバム「Home Bound」をリリースします。

「ニッキー・ホプキンス」さんやTOTOの「スティーヴ・ルカサー」さんといったアメリカを代表する一流ミュージシャンと共に本格的なロックを基調としたアルバムに仕上げます。セールス的にはヒットとは言えませんでしたが、この体験がついに自分の方向性として示せるものであることの自信となりました。

アルバムリリースツアー時の沖縄で、母親が脳閉塞で倒れ、危篤状態との知らせを受けます。一命は取り留めたものの半身不随を患うという出来事に遭遇しています。

この時の体験からできたのが名曲「悲しみは雪のように」であり、当時の思いが込められています

 

 

浜田省吾 初の日本武道館ライブ

満を持して?それとも無謀?初の日本武道館

1982年1月についにロックの聖地である「日本武道館」での初コンサートを開催します。

当時の実力からして無謀な挑戦とされていましたが、結果は即完売で大成功に終わりました。この勢いそのままに同年2月ライブ・アルバム「ON THE ROAD」を発売し、初のトップ10入りを達成

これ以降はコンサートツアーのタイトルを「ON THE ROAD」を冠とするようになります。

現在もなお、「ON THE ROAD」を冠として実施するツアーの映像になります。

浜田省吾 「ON THE ROAD 2015-2016 "Journey of a Songwriter"」Trailer Movie

翌年の1983年2月13日~2月15日には「渋谷公会堂」で3DAYライブを行い、この公演が渋谷公会堂を“ロックの殿堂”と呼ふようになるきっかけになったそうです。少しずつ上向く活動の一方で、所属事務所との方向性に関する意見がかみ合わなくなっていました

音楽事務所「ロード&スカイ」を設立

そのため、直に社長に意思を伝え、1983年4月1日に独立し、音楽事務所「ロード&スカイ」を設立するのでした。

当初は浜田さんの個人事務所でしたが、その後「尾崎豊」さんやサッカー選手の「三浦知良」さん、「スピッツ」さん、「斉藤和義」さんなどが所属するようになります。

独立後最初の一大イベントであった同年8月13日の初ワンマン野外コンサート「A PLACE IN THE SUN」では25,000人を動員を達成し、無事に成功。この時期からレコードの売り上げやライブの観客動員数も安定していきます。その後、1980年代は毎年のように年間100本近いコンサートツアーを続けていくのでした。

ついに勝ち取ったオリコン1位

1986年9月に発売された2枚組アルバム『J.BOY』ソロデビューして10年目の節目に初のオリコン・アルバムチャート第1位を獲得し、その後4週連続で首位を獲得します。このことにより名実共に日本の音楽シーンを代表するトップ・アーティストとなりました。

1988年8月20日には静岡県浜名湖「渚園」で行われた野外コンサート「A PLACE IN THE SUN at 渚園」52,000人を動員します。

当時の男性ソロ・アーティストにおける動員記録となりました。1989年5月に初となる映像作品「ON THE ROAD “FILMS”」を発売し、その後はしばらく音楽活動から離れ、休養に入るのでした。

 

浜田省吾 人気絶頂からうつ病へ、そして復帰