幕末のヒーローと言えば多くの方が最初に名前を挙げるのが土佐の「坂本龍馬」でしょう。
「薩長同盟」の仲介役として、「大政奉還」へと導くアドバイザーとして、また「海援隊」を作った人物でもあります。
新しい時代へと進もうとする時、先駆者は、既存の価値観を持った人々や既得権益を持った人々と、しばしば摩擦を起こすものです。
体制を維持したい人や今までの価値を重んじる人々から、竜馬のやろうとしていることはクーデターに見えたかもしれません。
「誰が竜馬を暗殺したのか?」
「誰が黒幕なのか?」
については、未だに謎の部分もあり、いくつもの説があります。
今回は、現在、最も有力と考えられる暗殺者とその黒幕について考えてみたいと思います。
竜馬はいつどんな状況で暗殺されたのか?
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時は1867年12月10日, 午後9時以降, 坂本龍馬と中岡慎太郎は、まだ、近江屋の2階の奥の8畳の客間にいました。
近江屋の雇い人である山田藤吉は、竜馬のために軍鶏を買いに行って帰ってきた後なので、2階の二人は、軍鶏を食べていたところかもしれません。
山田藤吉は近江屋の1階にいました。
階下で大きな音がしたため、竜馬は、「騒ぐな」と叫びます。
その後、男二人が8畳の部屋に入ってきて、
一人が竜馬の前頭部を斬り、もう一人は中岡の後頭部を斬りつける。
その後、竜馬と中岡は応戦し、二人の男は去って行きました。
竜馬と中岡はその後、片言の話をかわすものの、竜馬はその場で絶命, 中岡は二日後に亡くなりました。
竜馬が暗殺された場面は、主に襲撃後2日間生き延びた中岡慎太郎から語られた話が元になっています。
実行犯は、ほぼ確定している?
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竜馬が暗殺された後、戊辰戦争、函館戦争を経た1870年。
幕府軍として参戦していた元、京都見廻り組の隊員であった今井信郎が、竜馬を暗殺したことと暗殺した時のメンバーについて新政府軍に自供したことが伝えられています。
今井信郎から語られた話は、非常に具体的であり、その後も1911年に別の見回り組のメンバーからも証言とも一致していることから、竜馬暗殺の実行犯は、京都見回り組であった。
と結論づけることが自然であり、現在はこの説が最も有力です。
京都見回り組とは何か?
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結成された京都の治安を維持する組織でした。
当時の京都守護職は、会津藩の松平容保(たかもり)であり、容保配下の組織でした。
みなさんの中には、見回り組が、同じ会津の松平容保に組織された新選組とどう違うのかを疑問に感じられる方もいらっしゃると思います。
新選組が、武家以外から結成された寄せ集め集団であり、一面, 乱暴などで京都の人々に評判が悪かったことに対して、容保は幕臣からなる組織である見回り組を別に設立しました。
見回り組の幕臣の数は約200人で、主に御所や二条城周辺の警備に従事していました。
寄せ集め集団ではあったものの知名度が高いのは、池田屋事件などに携わった新選組の方で、やはり、新選組も最初に容疑者として疑われました。
参考:「京都通百科事典」
黒幕は誰なのか?
竜馬の性格
竜馬の性格はひとことで言うと、誰からも好かれる懐の深いタイプの人だったと言われています。
「細かいことにこだわらず」、「おおらかで」、「誠実で」、「愛嬌がある」。
それだからこそ、立場や考え方が違う薩長を結び付けられたり、徳川慶喜を大政奉還に導くことができたのです。
逆に言うと、それだけに利害の対立する人たちも多くいました。
竜馬が暗殺された時に多くの人に殺害の動機があったことが、この事件の特徴と言えるかもしれません。
黒幕候補(殺害の動機のあった人とその動機)
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①幕府
新選組や見回り組の任務そのものが、倒幕側を監視することでした。
②土佐藩
土佐藩内部にも竜馬の活躍を快く思わない人々もいました。
例えば、家老、後藤象二郎は大政奉還が竜馬ではなく自分のアイディアであることを画策していました。
③薩摩藩
元々、薩摩は「大政奉還」ではなく、薩摩の力で徳川家を滅ぼしたいという
意向がありました。実際に、大政奉還後の幕府軍に対しての戦い方を見ても明らかです。
④紀州藩
龍馬率いる海援隊の「いろは丸」と紀州藩の船舶衝突時、竜馬に「いろは丸」の賠償金を支払わされたことに恨みを持っていました。
参考:「誰が龍馬を殺したのか、黒幕は・・桐野作人氏が「真相」に迫る」
京都見回り組が自供した実行犯と黒幕とは?
語られた実行犯の実名
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元京都見回り組, 今井信郎の証言によると、1870年に近江屋の坂本龍馬と中岡慎太郎を襲ったのは、見回り組の7名で内3人は近江屋の見張りをしていた。というものでした。
襲撃のメンバー:
- 佐々木只三郎
- 今井信郎
- 渡辺吉太郎
- 桂隼之助
- 高橋安次郎
他2名(計7名)
実行犯が語る暗殺の動機とは?
今井信郎によれば、「竜馬は、かねてから見回り組が要注意人物として追っていた人物であり、近江屋に竜馬滞在の情報を得て踏み込んだ」と証言している。
少なくとも、京都の治安を守ることを目的にしていた見回り組や新選組にとっては、倒幕を唱える薩摩や長州などが、正にマークの対象であり、薩長同盟を仲介し、その後、大政奉還に導いた坂本龍馬がターゲットになっていたことは容易に想像できます。
見回り組や新選組にとって倒幕側の注意人物を捜査することが日常業務であり、大政奉還後、慶喜が譜代の大名に薩長への対立を促しても、すぐに方向性が変えられることではなかったのではないでしょうか?
「黒幕は誰か?」という疑問にストレートの答えるのであれば、会津藩主の松平容保ということになるでしょう。
ただ、「黒幕」という表現はニュアンス的には、適切ではなく、会津藩側から言えば、京都の治安を任され、その具体的な治安の方法が倒幕側のクーデター計画者の取り締まりにあたった。ということになるのでしょう。
参考:「歴人マガジン」
筆者の見解
筆者としても、竜馬暗殺の真相は、会津藩主の松平容保の命による見回り組の犯行だと考えています。
ただ、大政奉還後の旧幕府軍への執拗な攻撃の史実を見ると、新しい国づくりを目指す竜馬の大政奉還への志や意思ではなく、どうしても、幕府を力で絶滅させたい薩摩の意向が強く見えてしまいます。
もし、竜馬が暗殺されなかったら、大政奉還後の新政府軍と旧幕府軍の争いがあれほど激しいものにならなかったとも思いますし、あの時点で竜馬が暗殺されていなくても、薩摩に暗殺される可能性はあったとも思います。
新しい時代を切り開こうとする人間はいつでもリスクを負うものなのかもしれませんね。