第二次世界大戦が勃発したのは、1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻したのに対して、2日後、イギリスとフランスが宣戦布告し、戦争は始まりました。
その後、戦争は世界中に広がりますが、1945年までには、すべての地域で、戦争は終結します。
第二次世界大戦国別死者数:
1)ソ連 2,660万人
2)中国 1,320万人
3)ドイツ 690万人
4)ポーランド 600万人
5)インドネシア 400万人以上
6)日本 310万人
今回は、第二次世界大戦が起きた必然性や三つの大きな戦いをご紹介すると共に敗戦国はどのような処分を受け、未だに敗戦国としてのデメリットがあるのかについて考えていきたいと思います。
第二次世界大戦は「なぜ」起きたのか?:
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引き金となった第一次世界大戦:
産業革命後、いち早く近代化を達成したヨーロッパの列強諸国(イギリスやフランス)は植民地獲得に乗り出します。
しかし、近代化の遅れたドイツやイタリアが近代化を達成し、外部の市場を目指そうとしたとき、既にイギリスやフランスが世界市場を手にしており、このまま進むと、ドイツやイタリアの経済力, 国力はイギリスやフランスとさらに差がつくことが明白でした。
「植民地を持つ国」と「持たざる国」とが衝突した戦争が1914年サラエボでオーストリアの皇太子が殺された事件を契機に起きた戦争が第一次世界大戦でした。
終戦後のヴェルサイユ体制の失敗:
第一次世界大戦に勝利したイギリス, フランスなどの列強は、戦後処理としてフランスのヴェルサイユで条約を締結し、ヴェルサイユ体制が施行されます。
同時に国際連盟が構築されます。
ヴェルサイユ体制の基本姿勢と目的:
・ドイツなど敗戦国の再起を抑止する体制。
戦勝国は、ドイツに巨額の賠償金支払いを約束させ、自国の戦後復興に充てることを目指しました。
・旧ドイツ殖民地を分割し、戦勝国で維持することをめざしました。
同時に殖民地における民族闘争を抑圧する方針も打ち出しました。
・社会主義を掲げるソ連を警戒し、勢力の拡大を抑止すると同時に反共産主義陣営としての結束を目指すことになります。
世界恐慌の発生と列強諸国の動き:
1929年に世界恐慌が起きると、イギリス, フランスなどの列強は、自国と自国の植民地間での取引を促進し、自国エリア外の取引には高関税を課すブロック経済体制へと移行していきます。
米国は自国内で経済運営政策を実施していけるだけの広大さがありました。
しかし、自国の植民地をイギリス, フランスに奪われ、ブロック経済体制のとれないドイツやイタリアは次第に行き詰まり、ファシズムが台頭しくことになります。
国際連盟が国際連合と異なる点:
国際連盟では、連盟国加盟国が連盟国以外から攻撃を受けた際に協力して戦闘行為を起こす規定はありませんでした。
第二次世界大戦の主戦場はどこ?:
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戦いは、世界中に広がっていきますが、その中でも主戦場となったのは、以下の3つの戦いです。
西部戦線:
1940年にドイツは西部への攻撃を開始、中立国であるデンマーク, ノルウエー, オランダ, ベルギーへと次々に侵入し、6月にフランスのパリも占領します。
フランスのド・ゴールは亡命先のロンドンで自由フランス政府を立ち上げ、抵抗を続け、
イギリスは、ドイツ軍の激しい空爆に耐えながらチャーチル首相を中心として戦いを続け、ドイツ軍の上陸を許しませんでした。
東部戦線:
1941年に、ドイツは独ソ不可侵条約を破って宣戦布告し、ソ連に侵攻します。
ソ連は、多くの犠牲者を出す中、1942年には、スターリングラードの市街戦で激しくぶつかりあいます。
太平洋戦線:
1941年に真珠湾攻撃に成功した日本はその後の戦いも有利にすすめていきますが、1942年6月のミッドウエー海戦に大敗し、形勢が逆転していきました。
第二次世界大戦の主な敗戦国と戦勝国:
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主な敗戦国(枢軸国)と(指導者):
敗戦国:
- 大日本帝国(東条英機-首相 兼 陸軍大将)
- ドイツ(アドルフ・ヒトラー)
- イタリア王国(ベニート・ムッソリーニ)
その他の敗戦国:
フィンランド, デンマーク王国, ルーマニア王国,ハンガリー王国, ルーマミア,タイ王国,イラン帝国など
主な戦勝国(連合国)と指導者:
- アメリカ合衆国(フランクリン・ルーズベルト 大統領)
- イギリス(ウインストン・チャーチル首相)
- フランス(シャルル・ドゴール)
- 中華民国(蒋介石)
- ソビエト連邦(スターリン)
敗戦国として貼られたレッテルとは?:
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大戦中に検討されていた連合国の戦後処理方法:
1944年6月6日, 連合国側は、ドーバー海峡を渡り, フランスのノルマンディーに上陸すると、ドイツを制圧していきました。
この戦いに勝利した連合国側は、戦後処理についても検討し始めます。
ヤルタ会談(1945年2月4日~2月11日 ソ連ヤルタにて):
・出席者: チャーチル, ルーズベルト,スターリン。
・議題: ドイツ降伏への計画立案, ヨーロッパの戦後運営, 国際連合会議の調整, 日本へのロシア参戦の承認。
国際機関に関する連合国会議(1945年4月25~ 6月26日 米国サンフランシスコにて):
・出席者: 米英仏, 中華民国を含む51か国
・目的: 国際連合憲章への署名
ポツダム会談(1945年7月17日~8月2日 ドイツ, ポツダムにて):
・出席者: 英国(チャーチル, アトリー), 米国(トルーマン), ソ連(スターリン)。
・目的:日本軍の無条件降伏とドイツの処理に関する協定
敗戦国に課せられたレッテルとは?:
国際連合憲章とは?:
国際連合憲章は国連の基本文書で、加盟国の権利や義務を規定するとともに、“アメリカを中心とする戦勝国による世界平和と安全の維持、平和に対する脅威の防止や除去, 侵略行為に対して集団的な措置を取ること”を目的に連合国側51か国がサンフランシスコにて同意,署名したものです。
敗戦国に貼られたレッテルとは?:
国際連合憲章において、第53条と第107条の中で”敵国条項”という規定があります。
英語では、“enemy-state clauses”になります。
敵国とは、日本,ドイツ,イタリア,ハンガリー,ルーマニア,ブルガリア,フィンランドを示しています。
“敵国”と規定されたのは、この憲章が第二次世界大戦中に連合国に作られたのが主な理由ですが、内容は、第一次世界大戦に比べてかなり厳しいものでした。
わかりやすく言うと、第二次世界大戦に敗北した国が軍事行動を起こした場合は、理由の有無を問わず攻撃して、叩き潰してもよいということが規定されました。
敗戦によるデメリットは今でもあるのか?:
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敗戦によるデメリットは今でもあるのかという問いに対しては、間違いなくあるというのが正解ではないかと思います。
日本においてもドイツにおいても、軍人のみならず、多くの民間人が家を失い、家族を失い、財産を失っています。
もちろん、戦勝国にしても、同じ状況で、餓死,病死を含めた国別死者数では、当時のソ連が最も多いのが事実です。
第二次世界大戦国別死者数:
1)ソ連 2,660万人
2)中国 1,320万人
3)ドイツ 690万人
4)ポーランド 600万人
5)インドネシア 400万人以上
6)日本 310万人
不利を克服したドイツと日本:
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ドイツの場合:
・戦後、ドイツは東西に分断され、国連にもNATOにも加盟することもできませんでした。
・分断された東西ドイツは、それぞれがドイツ唯一の国家であることを主張してきましたが、1970年代にはいると西ドイツのブラント首相の「現実を認めるところから変革を始めよう」というスローガンのもと、ドイツの進むべき方向性が徐々に変化していきます。
東西ドイツは、互いを主権国家であることを認め合い、関係を正常化することに尽力し、1972年には、東西ドイツ基本条約を締結し、1973年には、東ドイツ, 西ドイツが共に国連の加盟国になります。
・そして、ベルリンの壁を破り、1990年10月3日には、東西ドイツは統一を達成します。
・そして、現在もEUのリーダーとして発展を続けています。
2018年度現在でも、GDPは世界の4位です。
日本の場合:
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・日本もドイツと同様に第二次世界大戦後, 無条件降伏を受け入れますが、最終的に占領国の米国は、天皇制継続の方向を決定し、永久的な戦争放棄を謳う憲法を発布します。
・1956年には、国連に加盟, 1964年には、アジアで初めて東京でオリンピックが開催されます。
・その後も戦後復興に尽力し、米国との関係を強め、高度成長期を迎えます。
1970年代には、「日本製」は世界で最も品質の高いものの代名詞となり、
1979年には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が出版され、経済大国としての地位を築いていきます。
・現在でも、日本は国連への負担金は米国についで2番目に多く、2018年度でも、GDPはアメリカ, 中国につぐ第3位です。
・但し、日本における戦後処理は遅れます。
台湾との日華平和条約締結は1952年, 韓国との日韓基本条約締結は1965年, 中国との日中共同声明は1972年とドイツに比べると極めて遅い締結となりました。
・戦後処理が遅れたためか、経済発展を成し遂げた韓国や中国からは、今でも、戦争責任を問われる声が消えていません。
著者の見解:
第二次世界大戦の火種は、第一次世界大戦中に既に存在しており、富を増やそうとした列強諸国の植民地獲得競争が激化していく中で起きたものであり、経済的な問題が戦争勃発の大きな原因のひとつだと考えています。
ドイツも日本も敗戦国となり、その後、いろいろな不利なことはありましたが、どちらも立派に復興を遂げましたし、東西ドイツは統一を達成することができました。
ドイツ,日本の二つの国, 特に日本が世界の中で経済的に復興できた理由のひとつは、アメリカの協力やアメリカとの安全保障条約が背景のひとつにあったと考えています。
日本がアメリカとの協力体制を確立できた背景には、戦中から新たに問題視されてきた共産主義国家との台頭の問題があり、アメリカ側には、日本を取り込んでソ連と対抗していく必要性もあったのだと思います。