明智光秀(麒麟がくる)「本能寺の変」を実行した3つの説。現在有力説は?

記録が少なく、信長に出会う30代までの人生が謎とされている明智光秀。
その中でも、最大の謎は「なぜ、明智光秀は本能寺の変を起こしたのか?」という点です。

「本能寺の変」を実行した3つの説

①怨恨説:
②黒幕説:
③四国の覇権問題説:

今回は現在も語られている、さまざまな説をご紹介させていただくと共に、どの説が最も有力なのかを考えてみたいと思います。

「本能寺の変」の概要と背景:

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「本能寺の変」当日:

1582年6月21日に早朝、約1万人の軍勢を率いる明智光秀は、京都の本能寺に滞在中していた織田信長を攻めます。
信長軍は精鋭ぞろいではあったものの多くて250名程度。

信長軍は、必死に臨戦するも数で勝る光秀軍に圧倒され、最終的に、信長は自害し本能寺は炎に包まれます。

1582年とはどういう年だったのか?(「本能寺の変」前日まで):

1582年1月。
信長は、武田勝頼に圧勝し、織田家の領地は、西は播磨(兵庫県), 東は上野(群馬県)まで拡大し、天下統一を成し遂げる間近でした。

その後、信長の主要な家臣たちは、天下統一の仕上げのために各地に派遣され、戦闘中でした。

秀吉は、備中高松城で水攻めを遂行中でしたが、毛利本体5万人が高松城へ救援にくるという情報を得て信長に救援要請を出していました。

秀吉の要請に応えて、信長は明智光秀に秀吉を助ける先鋒として備中へ赴くことを命じます。

信長も自らが出陣することを決め、西へ赴く準備の中、仲の良い僧侶のいる本能寺に滞在し、茶会などを楽しんでいる最中でした。

秀吉を助ける準備をしていた光秀は、本能寺の変が起きる前日、6月20日居城のひとつである亀山城(京都府亀岡市)から出陣します。

しかし、途中で方向へ変え、本能寺に向かったのでした。

 

 なぜ、光秀は「本能寺の変」を起こしたのか? 3つの説:

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①怨恨説:

光秀は、信長からパワハラを受け、信長に恨みや憎しみの情を抱いていたとする説です。
ここでは、伝えられているいくつかの例をあげさせていただきます。

・1579年に八上城(兵庫県篠山市)を統治していた波多野秀治兄弟を攻略する際、光秀は、信長からの許しが得られるように交渉すると波多野兄弟に提案し、人質として光秀,自らの母親を預けますが、信長の許しが得られずに、結果、光秀の母親ははりつけにされ、処刑されてしまう事件が起きました。

・「本能寺の変」が起きた日の3カ月ほど前の話です。
武田軍を完全に討ち滅ぼした織田信長軍。

信長や武将たちが勝利を喜んでいる中で光秀が発言しました。
「我々も苦労した甲斐がありました。」と。

信長は突然, 激怒。
「武田攻めでお前はなにに貢献したのか?」と光秀を問い詰めたと語られています。

・1582年。
信長の命を受けて、光秀が秀吉の援軍として中国攻めに出立しようとした直前に信長の使者が光秀を訪れて信長の意向を伝えたと言われています。

その内容とは、「中国攻めに勝利した後は、出雲, 岩見(いわみ)は光秀の領地にしてよいが、その際には、現在の近江坂本と丹波は、信長に返せ」というものだったそうです。

 

②黒幕説:

「信長が死んで得をするのは誰か?」

そんな視点から考えられたのが、光秀が謀反を起こすように仕向けた黒幕がいたのではないかという説です。
確かに信長と利害関係がある人物や組織はいくつもありました。

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黒幕は「足利義昭(室町幕府 15代将軍)」説:

信長の支援によって将軍職に就任できた足利義昭でしたが、その後、信長との摩擦が大きくなり、打倒信長を目指して信長包囲網(のぶながほういもう)を敷き、全国の戦国大名に信長を討つように号令した人物です。

最終的には信長に失脚させられた人物でもありますが、かつて光秀の主君でもありました。
当時、力は失っていたと考えられますが、信長を討つ動機を持っていた人物です。

黒幕は「朝廷」説:

信長が天下統一して都合が悪いのは、朝廷にしても同じでした。
いつの時代でも朝廷は強大すぎる武家勢力を望んでいるわけではありません。

信長の父親, 信秀の時代から、織田家の朝廷に対しての経済的援助はかなり大きかったと伝えられています。

当然,織田家の朝廷に対しての影響力も高まっていったことだと考えられますが、朝廷の権力を脅かすほど、信長の勢力は既に大きくなっていたのだと考えられています。

黒幕は「秀吉」説:

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信長が亡くなって実際に得をしたのは誰か?
誰から見ても、その後、天下取りに成功した豊臣秀吉です。

中国攻めに集中していたはずの秀吉が畿内に戻ってくるスピードはあまりに早すぎます。
200kmの距離を大軍で10日で到着し、さらに光秀を打ちとります。

また、武具や武器を船で運ばせた用意周到さは、まるで当初から予測していたようにも見えます。

織田家の武将たちが各地で参戦していた中で、信長をほぼ単独な状態にして光秀が信長を討つように追い込んでいったのは秀吉なのかもしれません。

黒幕は「家康」説:

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家康は、終始一貫, 信長の同盟国として信長に逆らったことはありません。
家康は長男と正室を信長に殺された際にも信長に忠誠を尽くしています。

それだけ、家康は信長の存在を畏れていたのだと考えられますし、信長は、いつか家康は邪魔になる存在として考えていた一面もあります。

いつかは、自分も信長に排除されるかもしれないと、心の中で不安を感じていた信長の家臣や信長と同盟を結んでいた勢力も少なくなかったはずで、光秀と家康が手を組んで情報交換をしていたという可能性はあります。

 

③四国の覇権問題説:

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四国説の概要:

信長の四国政策の意向変更に伴い、四国の大名の窓口をしていた明智光秀が信長の長曾我部元親(ちょうそかべ もとちか)征伐を回避するために光秀は信長を討ったという説のことです。

当時の状況と信長の意向:

信長と長曾我部元親の関係は極めて良好なものでした。
信長は、元親に対して、四国領内であれば、自力で獲得した場所は元親の所領にしてもよいという朱印状まで発行していたほどです。

また、1580年ごろの織田家代表として四国政策を担っていたのは、光秀や光秀の重臣たちであり、光秀と長曾我部元親の関係も良好なものでした。

信長の方針変更:

1581年になると、状況は一変し、元親に発行されていた自力で獲得した場所は元親の所領にしてもよいという方針から、信長は元親に対して、阿波の領地の半分を返還するように求めたのです。

突然の変更に元親は不服であり、信長の申し出を拒絶します。

信長が四国政策の方針を変えた背景には、信長は中国政策に苦労していたと言われています。

天下統一間近とはいえ、畿内の西には、巨大な毛利家がありました。
信長は対抗していた河内の三好康長を許すと、三好康長は、名物の三日月茶壺を信長に寄贈するなど、信長に接近していきます。

「三好三人衆」で有名な三好氏の発祥は四国の阿波でした。

信長に重用されるようになっていった三好康長は、先祖の故郷である阿波を中心に活動を拡げていったのです。
必然的に三好康長と長曾我部元親との間の摩擦は大きくなっていきました。

両者の調停のために、信長が下した判断が、長曾我部元親へ発行した朱印状の無効化であったと考えられています。

光秀を怒らせた理由とは?:

光秀や光秀の家臣たちは、ことを治めようと奔走します。

1582年の1月には、信長の命令を拒否した長曾我部元親でしたが、5月には、元々の領地である土佐の領地を除いて、信長の意向に同意するという趣旨の手紙を光秀の家臣宛てに送ってきたのです。

当然、光秀はこのことを信長に報告したのでしょうが、信長の長曾我部元親征伐の動きはそのまま進められました。
少なくとも、光秀側にはそう映りました。

織田家の仲介役として長曾我部と粘り強く交渉を続けてきた光秀の面目はまるつぶれになってしまいました。

そして1カ月後、「本能寺の変」が起きたのです。

 

筆者の見解

光秀が、「本能寺の変」を起こした理由は、ひとつではなく、複数のことがらがからんでいたのだと思います。

特に、信長の四国政策は光秀をかなり怒らせたことは間違いのないことだと考えています。

光秀も精神的にかなり弱っていた中での「本能寺の変」だったのではないでしょうか?

その原因のひとつが、出雲, 岩見(いわみ)は領地にしてよいが、現在の近江坂本と丹波は、戻せという信長の意向だったと思います。

もちろん, 信長の中には、さらに光秀に頑張って欲しいという気持ちがあっての命令であったのかもしれませんし、西日本は光秀に任せるという意向だったのかもしれません。

しかし、光秀としては、今まで活躍してきた京や滋賀から離れなければならないことにかなりの抵抗感があったことでしょう。

今の時代でも、転勤先が東京であれば、多くの人が喜ぶでしょうし、実際に都会での生活は便利です。
しかし、東京から地方への転勤だと、かなり大変な場合もあるです。

光秀はそんな風に感じるほど、軟弱者ではなかったと思いますが、それでも55歳を超えた年齢。資料によっては、70歳を超えていたという話もあります。

第一線で活躍してきた光秀にとって、秀吉への援軍の役目はプライドが傷ついたかもしれませんし、シルバー人材として扱われたと勘違いしたのかもしれません。

黒幕説については、黒幕はいなかったと考えています。

知性の高い光秀だからこそ、義昭筋や朝廷, 家康などとも、きちんと付き合っていたと思われますし、信長がかって倒してきた武将たちとも立場を超えた付き合いはあったのかもしれませんが、他人に持ち上げられて謀反をするような人間ではなかった。と考えています。

参考文献:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54295

https://ironna.jp/theme/6