坂本龍馬の会社(亀山社中・海援隊)の現在とは?その歴史と現在を解説!

幕末の異端児「坂本龍馬」は近代的な会社組織の設立と経営をした人物としても知られています。

坂本龍馬が持つ好奇心や積極性、天性の楽天家ぶりに心動かされる現代人も多いのでと思います。

今回は坂本龍馬が興した会社組織や、現代社会との意外な繋がりについて見て行こうと思います!

※アイキャッチはよさこいネットより引用しました。

長崎に亀山社中を設立して薩長同盟を画策

坂本龍馬は慶応元年(1865年)夏頃に薩摩藩や長崎商人の小曽根家から出資を受け、長崎の亀山に「亀山社中」なる組織を結成して商社のような活動をスタートさせています。

ちなみに「社中」とは共通の目的を持った仲間まで構成される組織の意味を持ちます。

元々は神戸海軍操練所に居た勝海舟の下で航海術や海軍について習っていましたが、同操練所の解散に伴って同志達の自活と学問の実践を兼ねて企業活動を始めたと言われています。

武器や弾薬、軍艦などを薩摩藩名義で購入して討幕の準備をしている長州藩に渡し、一方で米不足だった薩摩藩に長州藩の米を提供する和解案を提示して仲介をしていました。

長州藩から薩摩藩へ提供される予定だった500俵の米は準備されたものの、幕府による長州征伐が迫っていた事もあって薩摩藩は気持ちだけ受け取ったとされています。

これによって犬猿の仲だった薩摩・長州両藩の関係が改善して薩長同盟に至ります。

出典:MBC南日本放送

この薩長同盟は当時「朝敵」になっていた長州藩の赦免を目指しつつ、幕府がこれに断固として反対する場合は武力による解決も辞さないという軍事同盟でした。

亀山社中は貿易だけでなく、第二次長州征伐で「ユニオン号」を操船して実戦に参加していました。

 

土佐藩の支援で海援隊に改称

亀山社中には薩摩藩から提供された「ワイル・ウエフ号」と、薩摩藩名義で購入して運用を任されていた「ユニオン号」がありましたが、不幸にも「ワイル・ウエフ号」は事故で沈没し、残りの「ユニオン号」は長州藩へ引き渡した事で所有船舶が無くなってしまいました。

後に薩摩藩より「大極丸」が貸与されましたが、主力船であった「ユニオン号」が無くなった事で経営が悪化し、余った水夫たちの給料支払いなどにも苦労したそうです。

そんな中、亀山社中の保有する航海技術や貿易の経験、薩摩藩・長州藩に強いコネクションを持つ坂本龍馬に目を付けた土佐藩が救いの手を差し伸べる形になりました。

出典:長崎市公式観光サイト「 あっ!とながさき」

慶応3年(1867年)1月13日に土佐藩で通商を担当していた後藤象二郎と坂本龍馬が会談しました。

  • 坂本龍馬ら脱藩をした者の罪を赦免する
  • 土佐藩が亀山社中を預かり支援する

これにより4月頃に亀山社中は「海援隊」と改称して再スタートを切りました。

隊の規約には「土佐藩士や脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸・交易・開拓・投機・土佐藩を助ける」明記されており、経済と軍事両面で貢献が期待されていました。

しかし、多くの人材を受け入れた事もあって経営状態はそれほど良く無かったそうです。

いろは丸沈没事件の真相は?

1867年5月26日夜に海援隊が伊予・大洲藩から借り受けて運用していた「いろは丸」と紀州藩の軍艦「明光丸」が備中国笠岡諸島沖で衝突し、翌日「いろは丸」が沈没するという日本初の海難審判事故が発生しました(※備中国とは現在の岡山県)

紀州藩は幕府の裁定を仰ぐ提案しましたが、坂本龍馬は自身が熟知している「万国公法」を持ち出し、まだ馴染みの無かった外国法を基にして紀州藩の過失を責めました。

しかし、沈没した側の「いろは丸」にも重大な過失があったのですが、国際法に疎かった紀州藩の担当者を巧みな交渉術で篭絡して「非は紀州藩側にある」と認めさせました。

さらに、坂本龍馬は紀州藩に対して法外な賠償金を請求しています。

ミニエー銃400丁など銃火器3万5630両、金塊など4万7896両198文を積んでいた

本当であれば海援隊にとって大きな損失といえますが、1980年代に事故現場の海底で発見された「いろは丸」には坂本龍馬が主張したような積み荷は無かったそうです。

当時の技術では引き揚げて確認をする事も出来ず、紀州藩は不本意ながら「8万3526両198文」の賠償金を支払う事で合意しました (11月7日に長崎で土佐藩に7万両が支払われた)

ちなみに、この賠償金を現在の価値に直すと約164億円だそうです!

この海難事故は坂本龍馬の作戦勝ちに終わりましたが、当時の司法・警察権を司っていた徳川幕府を軽んじ、よりにもよって外国の法律を使って徳川御三家の紀州藩から賠償金を獲得した事は社会に大きな衝撃を与え、幕府方の恨みを買う形となりました。

 

坂本竜馬の死により海援隊は解散

出典:高知県立坂本龍馬記念館

1867年12月10日、坂本龍馬は京都の定宿にしていた近江屋に中岡慎太郎と滞在していました。

そこを何者かに襲撃され、不意を突かれた事で刀を抜くことも出来ずに鞘のままで戦いますが、額を切られるなど深手を負った坂本龍馬はほぼ即死だったそうです (31歳で没)

居合わせた中岡慎太郎は一命は取りとめたものの、12日の夕方に治療の甲斐なく29歳で没。

坂本龍馬の身の回りの世話をしていた山田藤吉も事件翌日の夕方に亡くなっています。

その後、海援隊は分裂するなど混乱しつつも戊辰戦争に参加して一定の戦果を上げますが、1868年(慶応4年・明治元年)6月17日に土佐藩からの命令によって解散しました。

残った隊士たちは後藤象二郎や岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)など関わりの深い要人たちに面倒を見てもらい、明治期に入ると多くの元隊士が政財界で活躍しています。

  • 陸奥宗光:外務大臣や農商務大臣を歴任
  • 関義臣: 貴族院議員や知事を歴任
  • 中島信行:初代衆議院議長
  • 長岡謙吉:坂本龍馬の死後の二代目の隊長。後に三河県知事に就任
  • 石田英吉:秋田県令や千葉県知事など多くの県知事職を歴任。農商務次官。

坂本龍馬を葬った真犯人は誰か?

幕末最大のミステリーである「坂本龍馬暗殺事件」ですが、真犯人は誰なのでしょうか?

定説として斬ったのは幕府直参の「京都見回り組」が有力になっており、実際に見廻組隊士だった今井信郎が「見回り組が暗殺に関与した」と供述しています。

もっとも、多くの見廻り組隊士が幕末の戦闘で亡くなっている事から詳しい真相は謎のままです。

この項目のタイトルを「斬った」ではなく「葬った」にしたのがミソでして、多くの幕末ファンの間でも斬った犯人よりも背後関係の方が話題として盛り上がります。

事件を聞いた海援隊の隊士たちが頭に思い浮かべた犯人の中に「紀州藩」があったそうです。

前述の「いろは丸」の遺恨があったと隊士で紀州藩士だった陸奥宗光は想像し、実際に同志ら15名と共に紀州藩士たちを襲撃する「天満屋事件」も発生しました。

また、新選組や見回り組も薩長同盟を締結させた事に対する遺恨もありますが、これらの事は全て「過去の出来事」であり、言ってみれば終わった話だと言えます。

事件当時、もっとも坂本龍馬の存在を煙たがっていたのは誰でしょうか?

武力による討幕を推し進める薩摩・長州藩と、徳川家を中心とした合議制を提案した坂本龍馬。

ドラマなどでは演出として盛り上がる「薩長黒幕説」を採用する事が多いですが、実際にはどの陰謀論も決め手に欠くところが多く、今でも結論は出ていません。

しかしながら、このような論争は結論が出ない方がロマンがあると言えますね。

 

意外な形で現在に残る海援隊

海援隊の隊旗は上記のような二曳(にびき)と呼ばれるデザインです。

非常にシンプルで紅白の色合いも国旗の日の丸に似ているので馴染みが深いと思いますが、このデザインはテレビや街中の至る場所で現在も見る事が出来ます。

そうです、今では日本を代表する企業に成長したソフトバンクのロゴと色違いなのです!

出典:ソフトバンク

これは孫正義さんが坂本龍馬の先見性や実行力をとても尊敬しているからでした。

現代風の解釈も加えられており、2本のラインを「= (イコール)やアンサー(ANSWER)」として捉え、シルバーは他の色に影響されずに自分の色で輝ける意味だそうです。

経営者視点だと坂本龍馬は日本におけるベンチャー企業の始まりと言えますよね。

さらに、もうひとつ日本を代表する企業が坂本龍馬と海援隊の名残を残していました。

出典:日本郵船

日本郵船のロゴが海援隊の隊旗とほとんど同じだと今回初めて知りました(汗)

なぜ日本郵船と海援隊?と思う方もいるでしょうが、日本郵船は「郵便汽船三菱会社」と「共同運輸会社」が合併して生まれた日本最大の海運会社だったのです。

三菱という企業を興したのは岩崎弥太郎であり、土佐商会時代に坂本龍馬の海運商法などに大きな影響を受け、東京や大阪、高知間の海上輸送を行う九十九商会を設立しています。

九十九商会は後に「郵便汽船三菱会社」へ改名していますが、もしも坂本龍馬と知り合っていなかったら海運業に手を出していなかった可能性もありますね。

日本郵船におけるロゴの意味は「日本の海運を代表する三菱と共同運輸の二社が合併した事」と、日本郵船の航路が地球を横断するイメージを投影したものだそうです。

 

坂本龍馬(海援隊)のまとめ

出典:高知県立歴史民俗資料館

坂本龍馬は亀山社中(海援隊の前身)を設立して約2年半後に命を落としました。

会社自体も坂本竜馬を失ってからは混迷を極め、後を追うかの様に半年後に解散を命じられました。

僅か2年半の間に犬猿の仲だった薩摩と長州を和解させて薩長同盟を締結させたり、日本初となる「近代的な会社」として企業活動をした代表者としても有名です。

志半ばで命を落としてしまいましたが、坂本龍馬の考え方は近代だけでなく現在を生きる人間にも届いており、彼の抱いていた「大志」は様々な形で今も生きています。

しかし、その後の明治政府の内紛(西南戦争)などを見て思ったのは、坂本龍馬は夢と希望をたくさん抱いた幸せな状態で人生の幕を下ろしたのかも知れないと言う事です。

それにしても、ダーティーな政治家になった坂本龍馬はちょっと見たくないですよね(笑)