コラムニストの勝谷誠彦さんが11月28日に亡くなったと発表されました。
勝谷さんは歯に衣着せぬトークと明るいキャラクターが人気になりました。
今回は勝谷さんを偲ぶとともに経歴などを辿ってみたいと思います!
勝谷誠彦さんのプロフィール
出典:毎日新聞
勝谷 誠彦(かつや まさひこ)さんは1960年12月6日に兵庫県尼崎市で生まれました。
実家は開業医での家柄で、名門の灘中学校から灘高校へ進学し、高校時代には生徒会長を務める一方で、地学研究部に所属して全国の鉱物を採集したり研究していました。
高校時代の成績は芳しくなかったと振り返っており、大学受験も失敗したそうです。
・筑波大学医学専門学群(医学部):不合格
・東京大学文科Ⅲ類:不合格
・早稲田大学第一文学部と慶応大学の法学部:合格
失敗のハードルが高い気がしますが、それだけ期待されていたとも言えますよね。
早稲田大学へ進みますが、家族に無断で決めた為に仕送りを止められてしまい、家庭教師や建設現場でのアルバイトで生活費を稼いだそうです。
大学在学中より「三尋狂人・みひろくると」のペンネームでフリーライター(風俗関係)として活動しており、その当時から大企業の管理職並の収入を得ていたそうです。
雑誌編集者として活躍
出典:産経ニュース
1985年に早稲田大学卒業すると広告代理店の電通に入社するも数ヶ月で退職。
次に文藝春秋へ入社し、初めは写真週刊誌 「エンマ」の記者として配属されました。
その後は「週刊文春」や「文藝春秋」に異動し、芸能人のワイドショーネタでは無く社会的な事件などを主に取り扱う担当になりました。
女子高生コンクリート詰め殺人事件を実名報道
勝谷さんが「週刊文春」の記者時代に「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が起こり、あまりの事件の凄惨さから社会に衝撃が走り、事件報道に自主規制が入るほどでした。
勝谷さんは当時の編集長・花田紀凱(現・”月刊WiLL”編集長)に許可を得て、当該事件の加害者少年らの実名を明らかにした記事を掲載しました。
この報道には賛成する意見と人権擁護の面から批判の意見が多数寄せられ、その後の少年犯罪や実名報道の在り方に一石を投じました。
これに対する勝谷さんの持論や反論は「獣に人権は無い」と言い切りました。
マルコポーロ事件をきっかけに退社
出典:デイリースポーツ
文藝春秋が発行していた雑誌「マルコポーロ」において、内科医・西岡昌紀氏が寄稿したナチス・ドイツによるホロコーストを否定する記事を掲載しました。
これに対して、アメリカのユダヤ人団体などから苛烈な抗議を受けて同誌を自主廃刊する事を決定し、当時の社長や編集長が辞任・解任された事件でした。
勝谷さんは直接の関係はありませんでしたが、雑誌の幹部構成員であったため第二文庫部へ異動となり、マイナーな漫画の文庫化の仕事を最後に文藝春秋を退社しました。
晩年の勝谷さんの活動
出典:aolcdn.com
雑誌編集者を辞めて以降はテレビメディアへの出演で人気を集めていました。
フリーランスになってからの活動や、最晩年について見て行こうと思います。
そこまで言って委員会の活動
読売テレビ制作の「たかじんのそこまで言って委員会」に登場し、過激な発言やユーモアあふれるキャラクターで人気を博しました。
あまりにストレートな物言いの為、放送では「ピー!」と修正されるシーンが多々ありました。
しかし、その自主規制に対して不満を持っていたらしく、読売テレビに対して「もっと言わせてくれ」と注文を付けた後にクビを告げられたと言われています。
言論人として”過度の自主規制”は耐え難かったのかもしれませんね。
2013年3月3日放送分をもって正式に降板したと自身のホームページなどで公開。
兵庫県知事選挙に立候補
出典:NEWS+α
2017年6月15日に告示された「兵庫県知事選挙」へ出馬して驚かれました。
出馬時の肩書は「コラムニスト」で、5つの公約を掲げていました。
現職知事の井戸敏三氏に挑む形になりましたが、初の選挙戦にもかかわらず【646,967票・得票率35.10%】を獲得するなど強力な現職を相手に大健闘しました。
写真の印象がガラッと変わっていたのも話題になっていました(笑)
病に倒れ帰らぬ人に
出典:NEWSポストセブン
勝谷さんは2018年8月21日に激しい腹痛を起こし、病院で診察を受けました。
診断結果は「劇症肝炎」であり、そのまま集中治療室での入院となりました。
その後は回復傾向にあり、ネットメディアなどに登場してコメントをしたりしていましたが、10月下旬に再び入院生活に入りました。
公式サイトにおいて【11月28日1時48分 肝不全のため尼崎市の病院で死去】と発表。
まだ57歳という若さでした。心よりお悔やみ申し上げます。