明智光秀(麒麟がくる)はなぜ信長の側近まで上り詰められたのか?

織田信長の家臣軍は、武田家や徳川家と同様に豪華な顔ぶれが勢ぞろいしていました。

・北陸方面軍には、柴田勝家, 佐々成正, 前田利家がいて、
・中国方面軍には、羽柴秀吉, 宇喜多秀家
・畿内方面軍には、明智光秀, 細川藤孝, 筒井順啓
・遊撃軍には、丹羽長秀と池田恒興が
・四国方面軍には、織田信孝
・関東完了軍には、滝川一益がいました。

生え抜きや若いころから信長家の家臣であったメンバーが多い中, なぜ中途入社の明智光秀が信長の側近に上り詰めることができたのか?
今回は、この問題について考えてみたいと思います。

織田家最大の手柄を成し遂げた光秀:

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足利義昭と織田信長を結び付けた光秀:

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当時の足利義昭の状況:

足利将軍家代々のならわしに基づき長男の足利義輝(あしかがよしてる)が第13代将軍に就任したのが、11歳の時。
次男であった義昭(よしあき)は、6歳のころから仏門に入っていました。

しかし、義昭が29歳の時、事件は起こりました。
当時、畿内で勢力をふるっていた松永久秀や三好三人衆がクーデターを起こし、足利義輝や母、弟などは殺されます。

義昭も興福寺に幽閉されますが、細川藤孝らによって救い出され近江の甲賀軍に身を寄せますが、居所を転々として、最後に頼ったのが越前の朝倉義景でした。

義昭の願い:

義昭の願いは、兄や母親を殺した松永久秀や三好三人衆を倒し、自身が将軍に返り咲くことでした。
しかし、上洛にあたっては後ろ盾が必要でした。

当初の後ろ盾の本命は、朝倉義景でしたが、義景はなかなか積極的に動いてくれる素振りがありません。
義昭は、全国の戦国大名たちに後ろ盾になってくれるよう依頼しますが、なかなか良い返事が得られないままでした。

実際に義昭の意向を組んで、各大名とのパイプ役を行っていたのが、細川藤孝であり、明智光秀でした。

細川家に残る資料によると、朝倉義景でなく、織田信長を後ろ盾にすることを強く提案したのが明智光秀だったと言われています。

光秀は、信長のところへ赴き、交渉します。
そして、1568年9月, 信長軍と浅井軍に警護された義昭は京へもどり、10月に第15代室町幕府の15代将軍に就任することになったのです。

殿中御掟(でんちゅうおんおきて)の立案:

織田家の家臣のだれがやっても達成できなかったであろう織田家を後ろ盾にして将軍家を再興させた光秀の実績は際立っており、信長は光秀を喜んで家臣に迎えます。

信長を父と呼び慕っていた義昭でしたが、京に戻った義昭のもと、寺社領の横領や幕臣たちの傲慢さが顕著になっていきます。

社会不安を起こしそうな幕臣の横暴さは、目に余るものがあり、信長は「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」を義昭に宛てて発信します。
光秀はこの書面にも関わっていたと言われています。

この文書は、義昭が家臣の行動をきちんと抑制するように諫めた(いさめた)忠告書であり、義昭も承認しましたが、そのころから義昭は信長のことを疎ましく感じるようになっていきました。

その後の義昭と信長の関係:

その後義昭と信長の関係は悪化していきます。
義昭は、信長包囲網構想である四方八方から信長を囲み倒すことを目標に諸国の戦国大名に書面を送りますが、最終的には、信長が勝利し、義昭を追放。
これを以て、室町幕府は滅びます。

実力主義であった織田信長:

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信長が優れていた点のひとつは、能力主義, 実力主義を採用していた点です。

もともと、信長はリベラルな考え方をする人物で柔軟な考え方をする人間でもありました。
人と接する時も、職業や身分や家柄で人を判断する人間ではなく、肌の色も気にせず、女性だからといって差別をするような人間ではありませんでした。

後に天下を取る豊臣秀吉も農民出でしたが、信長は秀吉の能力を正しく評価し、次々に大きな仕事をさせていきました。

信長が光秀に織田家で働くようにスカウトした際、光秀は年齢も信長よりもかなり年上で、浪人時代もあり、余儀なく何度か転職もしていますし、ましてや織田家生え抜きの人間ではありませんでした。

交渉にも通じ、武芸も達者、文化の素養をもった総合的に優れていたことを信長が認め光秀を取り立てます。
信長が光秀の真の実力を見抜いていたためだと考えられます。

信長と光秀は大きな志(こころざし)を共有する同士であった!?:

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信長は武力に優れた家臣を多く持っていました。
実際は、信長がそのように育てたと言えるかもしれません。

しかし、家臣は家臣であり、家臣の目的は親方様である信長に尽くすこと, 戦いに勝ち続けることでした。

信長の最終目標は、天下統一であり、天下布武(てんかふぶ)でした。

「天下布武」とは、戦のない天下泰平な国を作ることであり、信長はこの4文字を朱印に使う印象の印文に使っていました。
信長から発信された文書として、天下布武の印鑑をおしていたのです。

これは、信長の強い意志でもありました。

この信長の意思や願いを一番よく理解していたのが、明智光秀であったのだとも考えられます。

足利義昭を将軍にするために、光秀と信長が交渉する中で、お互いの生き方やビジョンを理解しあったのではないでしょうか?

同士であると認めたからこそ、信長は光秀を織田家に招き、光秀は喜んで織田家に仕官したのだと思います。

著者の見解:

この記事で書かせていただいた通り、明智光秀が信長の側近まで上り詰めることができた理由は、主に3点あり、足利義昭と織田信長を結び付けた点, 信長が実力主義を重んじていた点,光秀が信長のビジョンをきちんと理解した点にあると思います。

その中でも、足利義昭の後ろ盾として織田家をかついで義昭を将軍に就任するのをアシストした光秀の功績は、極めて大きなものだったと思います。

織田家が京へ近づけた第一歩ですし、最強の勢力のひとつとして世に知らしめたできごとだったと思います。

信長が光秀に命じた多くのミッションも当時信長が居城にしていた岐阜城から滋賀、京都という「京への道」においての仕事でした。

その点からも、信長の光秀に対しての期待は織田家に仕官した直後から常に大きく、光秀も信長の期待にひとつひとつ着実に応えていったのだと思います。

そんな中、光秀は信長から中国攻めに着手していた秀吉の援軍の任務を命じられます。
光秀はどんな気持ちで信長の命令を聞いたのでしょうか?