2018年の大河ドラマで放映されていた「西郷どん」ですが、ドラマで描かれていることは全て史実通りなのか?
あくまでドラマですから都合の悪い部分をカット・修正している可能性は大きくあります。
今知られている歴史は勝者が自分たちの都合がよくなるように描いた歴史です。歴史上には勝者と敗者が存在し、勝者は自分たちが正しかったから生き残れたと歴史を改ざんします。
歴史で習った西郷隆盛と、実際に生きた西郷隆盛はズレているのではないか?
どの歴史上の人物に対しても鵜呑みにせず、敗者からの視点も加えて見ていくと歴史が立体的に見えるようになります。
今回は西郷隆盛を大河ドラマで描かれた視点、実際の人物像、家系などを中心に見ていきましょう。
「西郷どん」は史実通りなのか?
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主人公 西郷隆盛のプロフィール
西郷隆盛は、薩摩藩下級藩士西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれています。
なぜ父と同じ名前なのかと言えば、王政復古が成り位階が授けられる際吉井友実が父の名前で届け出たところからそのまま名乗っていたようです。
1828年(文政10年)1月23日に生まれ、幼名は小吉、通称は吉之助と呼ばれていました。
郡方書役助として勤める一方で建白書を藩主の島津斉彬に提出していたことから目に留まり、重用されるようになります。
斉彬が急死し、藩主が島津忠義となり父である久光が権力を握るとそりが合わず冷遇される時期が続きました。それでも西郷隆盛の力は久光も認めないわけではなく、渋々復帰させて活躍していきます。
薩長同盟・王政復古・戊辰戦争を主導して明治政府の重鎮となるのです。しかし征韓論を巡って大久保利通らと対立し、明治政府を離れます。
離れた後は鹿児島に戻って私塾を開いて教育をしていきますが、冷遇された士族が西郷の決起を求めて引きずられるような形で西南戦争を指導しますが敗れて自刃したのでした。
ドラマの内容 →作り手が見せたかったこと、実際に描かれていた部分
大河ドラマとしての「西郷どん」は、原作・脚本家ともに女性であり女性の視点で愛にあふれたリーダー像を中心に描かれています。
女性目線で、一人の男が苦しんでいる人々を救うために立ち上がり日本を変えていくという勧善懲悪をメインにストーリーが進められていくのです。
西郷隆盛はドラマの中で苦悩しながらも、現実と向き合って時代を切り開いていきます。
ドラマと現実のギャップ →本当の人物像(考察)
ドラマで語られている人物像は、あくまでも物語としての西郷隆盛です。
ドラマはあくまでもドラマであり、史実とは違っています。
例えば愛にあふれたリーダーだったという位置づけで大河ドラマは描かれていますが、現実的に大久保利通というブレーキ役がいたからこそ西郷は成立していたと考えられます。
大久保利通はリアリストであり、現実的な処置をしようとしますが西郷隆盛はロマンチストです。全てを破壊して1から作り上げようとします。
典型的な例
幕府側を挑発して戦に持ち込もうとした行動です。
西郷は江戸で攪乱・強盗など工作をさせて、実行犯を偽官軍だとして抹殺しています。
上手く戦に持ち込んで、脅すような形で江戸城無血開城へとつながっていくのです。
西郷隆盛と勝海舟が話し合いをして和睦となっていますが、仕掛けたのは西郷・大久保を中心としたグループだということを覚えておいてください。
最後(どうやって亡くなった?)
西郷隆盛はどのように亡くなったのでしょう?
西南戦争で敗北が決定し、城山に追い詰められていた西郷隆盛にも最後の時が訪れます。腹部・大腿部に被弾し別府晋介に介錯を頼んで自刃するのです。
西南戦争は西郷が望んだ戦争ではなく、現状に不満を抱いている士族に引きずられて指導者として参戦しました。
もしかしたら、不平士族を一掃する機会として、自分の身を犠牲にしたのかもしれません。
西郷隆盛の現在
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「西郷どん」で脚光を浴びた西郷隆盛について、現在はどのような評価がなされているのでしょう?
大河ドラマの影響もあり、注目されています。ここからは西郷隆盛が残した功績、家系などを中心に見ていくので実際の西郷隆盛を知る機会になるはずです。
雑学として東京都上野駅前にある銅像ですが、あの西郷隆盛像が実際の西郷隆盛とは違うという事実は大河ドラマの冒頭で夫人の糸が話しています。
お墓は?
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西郷隆盛の墓所は、鹿児島県鹿児島市上竜尾町にある南州神社に埋葬されています。
この神社は、西南戦争で亡くなった戦没者埋葬地南州墓地の近くにある神社です。創建されたのは明治13年のことで、多くの参拝者が訪れています。
当時の偉業が現在の礎になっていること
地租改正
よく知られている偉業として、地租改正が挙げられます。
地租改正は、私的な土地所有を認めるという法律でありこれまで藩主のものであった土地を広く私的所有を認めるというものにしました。廃藩置県によってもはや藩はなくなったことから可能になったことです。
太陽暦を採用
また、現在使用されているカレンダーですが太陽暦を採用しています。
日本では以前太陰暦を採用しており、西郷隆盛が一時期政府を預かった際に太陽暦となっています。これは現在でも採用されている暦であり、世界基準です。
西郷隆盛の家系は?
西郷隆盛の家系はどのようになっているのでしょう?
以下の家系図をご覧下さい。
まとめ
西郷隆盛について「西郷どん」との違いをお伝えしてきました。
敬天愛人という言葉が代表的に伝えられていますが、理想と現実のはざまで西郷隆盛は生きたのだと考えられます。
理想を持って生きることは素晴らしいことですが、そこには現実との調整が必要です。西郷隆盛は純粋すぎたとも言えます。
しかし成し得た偉業は燦然と輝いて、語り継がれていくことでしょう。