「May J.」の現在。カラオケ歌姫としてブレイクも・・・メイジェイの今とは?

歌うために生まれてきたといっても過言ではないMay J.

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「May J.(メイ・ジェイ)」さんは1988年6月20日に東京都生まれ、神奈川県横浜市で育ちました。本名は「橋本 芽生(はしもと めい)」さんといい、芸名は本名の「芽生」と自分のミドルネームである「ジャミーレ(Jamileh)」の「J」を取ったものだそうです。「ジャミーレ(Jamileh)」とはペルシア語で「美しい」、「才能溢れる」という意味を持つ言葉だそうで、まさに名は体を表すといったところでしょうか。父親は関西出身の日本人の方で母親がイラン、ロシア、スペイン、イギリス、トルコという多国籍な血筋を持つそうです。日本では珍しいですね。本人は日本語、英語、スペイン語、ペルシア語 と4か国語以上を話すマルチリンガルとして育ちます。

父親はセールスマーケティングマネージャーとして国内外問わず活躍されている方だそうでその昔、 「大洋ホエールズ(現横浜DeNA)」、「近鉄バファローズ(現オリックスバファローズ)」に在籍プロ野球選手のR・J・レイノルズの代理人も務めていたということです。

ご両親が語学や音楽、コンピューターといった内容の学校を経営していたこともあり、3歳からバレエ声楽ピアノ作詞作曲といった幅広い教育を受けたそうです。その時に西洋、アジア、中東民族などのワールドワイドな音楽に触れたことで今の活躍につながる土台が出来上がっていきます。

ついに歌手としての能力が開花したMay J.

学校法人「森村学園」の幼稚園にに入園し、初等部へと上がった「May J.」さん。8歳の時に横浜でも中規模クラスのホールである「フィリアホール」にてオペラソングを披露するほどになります。この時代には同級生に現在タレントとして活躍されている「宮澤エマ」がいらっしゃったそうです。

その後も実力をつけていった彼女が森村学園の中等部に上がってからは13歳の時に在籍していた「AVEX ARTIST ACADEMYボーカルコース」を首席で卒業します。翌年の2003年にはヤマハ「シンガーコンペティッション2003」全国大会本選にてソロ部門特別賞受賞。他にも「MTVミュージックアワード2003」ではオーディエンス賞受賞し、歌手としての能力がついに世間に認められるようになります。

歌だけではなく「2003 エリートモデルルック全国大会」ではファイナリストに選出。「NBA JAPAN GAMES2003ハーフタイムショーダンスコンテスト」でも最終の12人に選ばれたことで多才ぶりもみせつけることになりました。

彼女の実力はプロの目にも止まり、 アメリカで活躍する歌手である「アーロン・カーター」のコンサートでダンスを披露したり、2004年には「SPHERE of INFLUENCE」のアルバム『COLOR』に「feat. MAY」として参加し、徐々に活躍の場を広げていきます。そして同年に「森村学園」中等部を卒業するのでした。

念願のデビューと挫折を味わったMay J.

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「森村学園」中等部を卒業後、「May J.」さんは「 ASIJ(アメリカンスクール・イン・ジャパン)高校」に入学します。ここには歌手の「青山テルマ」さんや「宇多田ヒカル」さんなども通っていたそうです。

そして高校在学中である2006年7月12日にミニアルバム「ALL MY GIRLS」デビューを飾ります。それからも何枚かシングル、アルバムを発表しますがなかなかヒットにはつながらず、挫折を味わうことになります。この人気が出ないデビュー後の数年間について彼女はこう語っています。

「3歳の頃から歌手になりたいと思っていて、歌以外に正直何も興味がありませんでした。大人になっても歌手になりたいという大きな目標を持ち続けていたし、一番大変だった時期も『挑戦し続けていればいつか目標にたどり着ける』と信じて、ただひたすら前を見ていました。」

「この本を今読んでみると『この頃には戻りたくない』っていう気持ちになるんですけど、当時はそれが当たり前で、つらいと思ったことはなかったんです」

引用先:May J.がバッシングに言及「生放送で歌う最中も非難の声が頭の中に」-音楽ナタリー

自分の夢をかなえるためにあきらめず戦い続ける彼女の姿がそこにはありました。

 カラオケ歌姫としてブレイク…そして運命の曲と出会ったMay.J

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デビュー後にブレイクを目指し、試行錯誤の日々が続いていた「May J.」さん。そんな彼女に転機が訪れます。それは「テレビ朝日系」で放映されていた『関ジャニの仕分け∞』で「カラオケ得点対決」という企画に出演することになったことでした。名だたる歌手と対戦して1つずつ勝ちを重ね、気づけば最高で26連勝という記録を打ち立て、気づけば番組で「歌姫」と呼ばれるようになっていました。

この時の心境を彼女はこう語っています。

「当時はプロとはいえ自分が歌える場所は少なかったし、テレビで歌う機会はほとんどなかったので、お話をいただいたときはチャンスだと思って出ることを決心しました。カラオケとはいえライブと同じように、聴いてくれる人に歌で感動してもらえたらと思っていました。」

「3分間でどれだけ爪跡を残せるか、採点のポイントにならないところでいかに自分なりのスタイルを詰め込めるか考えて地元のカラオケで練習していました。最初のうちは挑戦者として『名前を知ってもらうためにがんばろう』という気持ちでしたけど、10連勝あたりからプレッシャーが強かったです。」

引用先:May J.がバッシングに言及「生放送で歌う最中も非難の声が頭の中に」-音楽ナタリー

この流れに乗って、2014年公開のディズニー映画「アナと雪の女王」の日本版主題歌を担当します。
これが大ヒットとなり、同年の第65回「紅白歌合戦」に出場するまでになります。翌年の2015年1月には「日本武道館」にて単独公演を開催し、ついに彼女が歌姫であることを証明したのでした。

しかしこの主題歌である「Let It Go~ありのままで~」についてはブレイクの裏でさまざまなバッシングがあったそうです。このことについては彼女はこう言っています。

「気にしないようにしていたけど、気になってネットのコメントとかを1人で読んでいました。テレビの生放送で歌っているときに、ふとそのバッシングの声が頭に入ってきて、歌に集中できなくなったことも何回もあります」

「このままじゃダメだなと思ったときにライブで『Let It Go』を歌ったら、この曲を聴きたいと思って集まってくださった方々が目の前にいたんです。そのうれしそうな笑顔を見て、楽しみにしてくださる人のために一生懸命歌い続けていきたいなと思いました」

引用先:May J.がバッシングに言及「生放送で歌う最中も非難の声が頭の中に」-音楽ナタリー

May.Jの現在は?

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歌手としての人気を得た「May J.」さん。2017年現在はどのような活躍をされているのでしょうか?
2016年に彼女のデビュー10周年を記念し、「私のものじゃない、私の歌」という自叙伝発表されました。幼少期からデビュー、挫折そしてブレイクという流れを素直な気持ちでつづった本に仕上がっています。

この時のインタビューで彼女は今後の歌手活動について

「以前までカバーアルバムを作ろうと思ったことはなかったんです。でも歌謡曲を歌うテレビ番組に出演させていただくうちに、そういうカバーをもっと聴きたいという声をいただくようになって。そう思って求めてくれる人がいるのは幸せなことだなと思いました。オリジナルでもカバーでも関係なく、どんな曲でも自分はシンガーとして歌い続けたいです」

引用先:May J.がバッシングに言及「生放送で歌う最中も非難の声が頭の中に」-音楽ナタリー

と語っており、歌手としての使命というものを悟ったと感じられます。

2017年5月24日には10枚目のシングルは「母と娘の10,000日 ~未来の扉~」をリリースし、2017年5月13日~2017年7月30日にかけて全国12か所をまわるライヴツアー開催しました。そして2017年10月25日に3年振りとなる8枚目のオリジナルアルバム「Futuristic」を発売しています。

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メディアでも日本テレビ系「のどじまんTHEワールド!」の審査員を務めている姿なども拝見でき、充実した活動の中にいることが伺えしれます。

まだまだ進化していくであろう「May J.」さん。これからの活動も楽しみですね。