達川光男の現在。しくじり先生で話題に!デッドボール、コンタクトとは?工藤公康との以外な関係

元広島東洋カープの達川光男さん。

選手時代は、テレビ番組「珍プレー、好プレー」の常連としてよく取り上げられていました。

どちらかと言えば、珍プレーが多かったですね。

現役引退後は、広島で監督、他球団でもコーチを歴任しています。

また、人気番組の「しくじり先生(2019/8/7)」にも出演したことで「やっぱりこの人は面白い!」と話題にもなりました。

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そこで今回は、達川光男さんの経歴(選手時代)、家族、珍プレー、監督・コーチ歴、現在についてまとめてみました。

達川光男 プロフィール

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名前:達川光男(たつかわみつお)

愛称:タツ、たっちゃん

生年月日:1955年7月13日

年齢:64歳(2019年10月時点)

出身地:広島県広島市東区

身長:177㎝

体重:74㎏

投打:右投げ右打ち

ポジション:捕手

プロ入り:1977年ドラフト4位(広島東洋カープ)

引退年:1992年

選手歴:広島県立広島商業高校→東洋大学→広島東洋カープ(1978年~1992年)

監督歴:広島東洋カープ(1998年~2000年)

コーチ歴:福岡ダイエーホークス(1995年)、阪神タイガース(2003年)、中日ドラゴンズ(2014年、2015年)、福岡ソフトバンクホークス(2017年、2018年)

プロ入り前

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達川光男さんは、強豪:広島商業高校(広商)出身で、、1973年の春の選抜甲子園に出場し、準決勝では江川卓さん(元巨人)を擁する作新学院を、チーム一丸で待ちと小技で攻め崩し勝利しますが、この時は準優勝でした。

同年、夏の甲子園に出場し、この時は見事に優勝。

捕手のイメージが強い達川光男さんですが、本格的に捕手をやり始めたのは高校1年生の時で、当時の迫田監督が達川光男さんの肩の強さを見て、捕手にコンバートしたそうです。

本人曰く、「木製バットでホームランを打った最後の甲子園球児」と後年語っています。

※翌年の大会から金属バッドが採用されたため。

ホームランを打った達川光男さんですが、この時のベンチのサインはヒットエンドランだったそうで、達川光男さんは迫田監督から烈火のごとく怒られたそうです。(なんでサイン無視をしたのか?と)

高校卒業後は東洋大学に進学しています。

理由は、達川光男さん自身が地元の広島東洋カープを熱望したそうですが、高校時代はまだカープのスカウトの評価が高くなかったために、大学で実力をつけると決心したそうです。

東都大学リーグでは、1976年秋季リーグにリーグ加盟36年目での初優勝。

大学通算成績は、リーグ通算90試合出場、283打数64安打、打率.226、3本塁打、25打点、ベストナイン(捕手)1回。

1977年のドラフト会議で広島東洋カープから4位で指名されプロ入り。

ドラフト会議はテレビで見ていたそうですが、2巡目あたりから自分の名前が出ないので、パチンコをしに行ったとか。

後輩から指名されたことを聞いたときは、パチンコ台から動けなかったと振り返っています。

プロ入り後

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達川光男さんは入団直後に、高校の先輩にあたる三村敏之さん(元広島選手、監督)に自分のバッティングを見てもらったところ、

プロでは通用せん。バッティングが駄目なら捕手として監督の戦術をこなせるようになれ。そうすればいつかはレギュラーになれるかもしれん

後年、達川光男さんはこの時のことを、

心が折れそうじゃったが、早い段階から方向性が決まった事は結果的に良かった

と話しています。

1年目から1軍に上がりますが、バッティングが非力なために、控え捕手として数年過ごしています。

しかし、1982年に守備力が評価され始め、1983年からは正捕手として起用されるようになり、1984年の日本シリーズ(対阪急)では先発マスクをかぶり、日本一に貢献。

1986年の日本シリーズ(対西武)でも活躍しますが、この時は惜しくも敗退。

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この時のMVPは、西武の工藤公康投手(現:福岡ソフトバンクホークス監督)で、達川光男さんとは因縁がありますが、後にソフトバンクホークスで「工藤監督、達川ヘッドコーチ(2017年、2018年)」の間柄になっています。

投手出身の工藤監督と、捕手出身の達川コーチのバランスが良かったのかは分かりませんが(選手が最強クラスに良いのもありますが)、ソフトバンクホークスは2年連続日本一に輝いています。

※達川コーチ退団後の2019年にも日本一にもなり、球団初の3年連続日本一になりました。

話を達川光男さんの現役時代に戻します。

1991年には広島のセ・リーグ優勝に貢献しますが、日本シリーズ(対西武)に敗退。

その後、若手捕手の台頭もあり、1992年に現役を引退。

広島カープは、1991年の優勝から2016年に優勝するまで、25年間の暗黒時代(Bクラスの常連)を迎えますが、野村克也さんは、広島低迷の理由に「達川の引退でチームがガタガタになったこと」を上げています。

まあそれだけではないと思いますが、やっぱり強いチームには良いキャッチャーがいます。

古田敦也さん(元ヤクルト)、谷繫元信さん(元横浜、中日)などが代表例ですよね。

 

”ささやき戦術”とは?

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ささやき戦術とは、バッターボックスで相手打者に話しかけて、集中力を奪うことです。

野村克也さんは相手の弱みを突いて集中力を奪っていましたが(暗いささやき)、達川光男さんは世間話や嘘をつくことで混乱させるいわゆる「明るいささやき」でした。

具体的には、広島弁で「今日飲みに行くん?」などと関係ない話題を振ったり、わざと相手打者に球種やコースを教え混乱させるというもの。

わざと大声で投手に指示をだしていたとも言われています。

しゃべると頭の回転が良くなる人物なので、相手チームが「達川無視作戦」を決行し、「お前らどうなっとるんや」達川光男さん自身が混乱し、ペースがつかめなくなったこともありました。

達川光男さんのささやき戦術のきっかけは高校時代の春の甲子園(作新学院との試合前)で、迫田監督(当時)に、

なんでもいいから(作新学院の)江川卓を広島弁で脅してこい

と心理的な揺さぶりを指示されますが、達川光男さんは、

何を言えばええんですか?勘弁してつかあさい(勘弁してください)

と反対しますが、認められず決行されることに、当時江川卓さんに言った言葉が、

今日は、おどりゃあ(お前)覚えとけよ!

と言うのが精一杯だったそうです。

効果があったのかは分かりませんが。(試合には勝っていますけど)

今、これやると間違いなく問題になるでしょうね。

ただ、心理戦の重要性を理解した達川光男さんは、プロ入り後には積極的に「ささやき戦術」を使っています。

 

デッドボールの達川

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以前、「しくじり先生」というテレビ番組に出演した際に、達川光男さんのイメージについて調査を行ったことろ、第1位は「デッドボール」という結果になりました。

達川光男デッドボール

達川光男さんはデッドボールをぶつけられるほど、インコース攻めに遭うほどの強打者なのかと言ったら、そういうわけではありません。

インコースに来た球を当たってもいないのに、「当たった!」とアピールすることが多く、「プロ野球珍プレー、好プレー」でも名物コーナとなりました。

その為か、「デッドボールの達川」、「詐欺師」のあだ名がつき、現在もトリックプレーの代表格として扱われています。

当たってもいないデッドボールで審判を欺いて出塁することも当初はできていましたが、段々マークが厳しくなってきたこともあり、本当にデッドボールが当たった時には、審判に信じてもらえなかったこともありました。

まさに「オオカミ少年」ですね。

なぜ、こんなことをやり始めたのかというと、「(達川光男さんは)打撃が非力なために、何としても出塁したかった」という想いがあったそうです。

なお達川光男さんは日本シリーズで最多死球(デッドボール)6回の記録を持っています。

当たったのも当たっていないのもありそうですが、記憶に残る選手だったのは間違いないでしょう。

 

コンタクトレンズ紛失事件

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達川光男さんは、プレー中はメガネではなく、コンタクトレンズを使用していました。

突然、試合中にプレーが中断し、観客にも何が起こったか分からない状態の中、場内アナウンスで「達川選手がコンタクトレンズを紛失したため、中断しています」と放送されると、場内は大爆笑。

当時のコンタクトレンズは非常に高価だったため、ホームベース付近に両チームの選手が集まり、必死になって探していました。

現在のプロ野球では考えられない光景ですよね。

 

監督として

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達川光男さんは、現役引退後は解説者、広島の2軍監督経て、1998年に1軍監督に就任しています。

当時の広島は主力選手にケガが続出し、球団ワースト記録の13連敗を喫しています。

このころ、後に2000本安打を放つ新井貴浩選手は1年目の新人で、日米200勝を果たした黒田博樹投手もエースと言われるには、ほど遠い若手選手の1人でした。

この時は、新井選手、黒田投手などの若手選手を使わざるを得ないほど、苦しい台所事情でした。

広島の監督は、基本的に5年周期ですが、達川光男さんは、3年で辞任しています。

 

解説者として

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達川光男さんは、解説者としてもある意味有名です。

視聴者を意識した話し方をするので、聞いていると笑えます。

イメージは完全に「広島弁のおもしろいおじさん」ですね。笑

ちゃんと野球の解説をしているのかは疑問符がつくことはありますが。

口癖は、「あのね~」は、松村邦洋さん(掛布雅之さんのモノマネがお馴染みですが)によくマネされていましたね。

ただ、捕手出身で頭脳派だったのは、間違いないので、あえてテレビ用に話していたと思われます。

それにしてもよくしゃべる人でした。

 

家族(嫁、娘)について

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達川光男さんには、奥さん、娘さん(2人)がいます。

しかし、奥さんの仁美さんは、2014年に53歳の若さで大腸がんで亡くなっています。

娘さんが2人いると言われています。

お名前は、未来さん、貴絵さんと言うそうですが、一般の方なので詳しい情報はありませんでした。

 

工藤公康との関係は?

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達川光男さんは複数のチームでコーチを務めていますが、先程も触れましたが、直近では、福岡ソフトバンクホークス(2017年、2018年)のヘッドコーチを務めています。

実は、これは工藤公康監督が達川光男さんを招聘したとも言われています。

過去には日本シリーズで対戦したこともある、工藤監督と達川光男さんですが、選手時代に達川光男さんが工藤監督へ言った第一声は、「オイ、工藤なめんなよ」だったそうです。

以前、工藤監督が横浜DeNAベイスターズから監督就任の打診があったそうですが、工藤監督が条件として達川光男さんの入閣を挙げたそうですが、DeNA側が拒絶し、実現しませんでした。

その為、達川光男さんの入閣は工藤監督の悲願でもあったという訳です。

では、なぜ選手時代に苦しめられた相手を招聘したのかと言うと、達川光男さんのインコース攻めも厭わない強気のリードが工藤監督の中に残っていたのではないでしょうか?

手ごわい敵は味方にしてしまえば良いということなのか、コーチとしての指導力を買われてのことなのかもしれません。

事実、参謀役として達川光男さんは工藤監督の黒子役として活躍し、2018年日本シリーズMVPの甲斐拓也選手(甲斐キャノンで有名になりましたね)の育成にも携わっています。

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甲斐拓也選手は達川光男さんについて、

達川さんと出会えて本当によかったです。コーチと選手という関係ではなかった。それ以上の関係がありましたし、それ以上の信頼もありました。達川さんのおかげで今の僕があるなと、本当に感じる部分は大きいですね。

と話しています。

実際、達川光男さんは甲斐拓也選手に定期的に電話したりと、悩みを聞いていたとも言われています。

解説者としては、「芸人ばりのおもしろいおじさん」のイメージですが、指導者として優れている面があるのも確かです

 

達川光男の現在は?

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達川光男さんは、2016年2月に学生野球資格を取得してから、広島県の強豪校(高校)で無償で臨時コーチをしています。

指導の成果もあってか、今年、母校の広島商業高校(広商)が15年ぶりに夏の甲子園に出場。

広商が甲子園で敗れた際には、東京のテレビ番組の生放送に遅刻してしまうくらいショックだったそうです。

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何でも、福岡(解説の仕事をしていた)にいて飛行機を遅らせたそうです。

現在のプロ野球は実力でパ・リーグがセ・リーグを圧倒しているので、バッテリーコーチかヘッドコーチあたりで、古巣:広島カープに帰ってこないかなと思うファンの人もいるのではないでしょうか?

特に現在は、ソフトバンクホークスがダントツに強いので、その辺りの事情をよく知っている人物ですし。

まあ、広島ローカルやスポーツチャンネルなどで、野球解説者としてテレビ番組にも出演しているそうなので、芸人ばりの面白いしゃべりもまだ聞けそうです。

以上、ここまでお付き合いありがとうございました。

達川光男

講談社BOOK倶楽部、著:達川光男「広島力」:http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000321468

福岡ソフトバンクホークス選手名鑑(達川光男):https://www.softbankhawks.co.jp/team/player/detail/2016_79.html