金田正一が死去!現役時代ほんとにすごかった!プロ野球史上唯一400勝!ストレートは160㎞以上?

日本プロ野球史上唯一400勝を達成した金田正一さん。

先日(2019年10月6日)お亡くなりになったという訃報が飛び込んできました。

ノビのあるストレートと縦に大きく変化するカーブを武器に活躍し、もはや誰も破れないであろう記録を数多く作った金田正一さん。

そんな、金田正一さんの選手・監督時代の成績や引退後の生活についてまとめてみました。

2019年10月6日に死去

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金田正一さんは、2019年10月6日に、急性胆管炎による敗血症のため東京都内の病院で死去されました。(86歳没)

昭和の大投手の訃報に関係者からは悲しみの声が寄せられていますので、一部をご紹介します。

親しかった有名人の声

王貞治(ソフトバンク球団会長)

巨人に入って初めて金田さんと対戦した時は、別格以上の、それこそ大別格な投手だと感じました。その後金田さんが巨人に入団してからは、野球に関して大変色々な形で指導していただきました。私にとって金田さんは大切な恩人の一人です。謹んでご冥福をお祈りします。

中西太(元プロ野球選手)

テレビで亡くなったことを知り驚いた。球界を代表する偉大な投手で、オールスターでも戦ったし、よく冗談を言い合う仲だった。金田さんとは去年暮れの巨人の原辰徳監督の野球殿堂入りのパーティーで同じテーブルになった。金田さんは元気にしていて『高齢だから体に気をつけような』と言ったところだった。野球一筋に生きた大投手だった。取り残された気分で残念です

野村克也(元プロ野球選手、監督)

球界の大先輩で同じ時代に戦ってきた方をまた1人失って悲しいかぎりです。天国から野球界を見守ってください。ご冥福を心よりお祈りいたします

米田哲也(元プロ野球選手、通算勝利数2位)

体調を崩しているとは知らなかったので驚いています。高校2年生の時、プロ野球のオープン戦で当時国鉄の金田さんのピッチングを初めて見て、球がものすごく速く感じたのを覚えています。プロに入ってからは記録を追い求めていたからこそ長く現役を続けて400勝を達成できたのだと思います。自分も400勝を目指していましたが、達成できなかったからこそその偉大さがわかります。本格的なつきあいは名球会に入ってからで、いろいろと声をかけていただきましたが、本当に残念です

梨田昌孝(元プロ野球選手、監督)

ことし6月ごろに東京ドームでお会いした時は元気そうだったのでまさかという感じだ。金田さんは野球界にとって偉大すぎる存在。いつも堂々と胸を張って歩いている姿を見て体全体からみなぎるパワーを感じたし、球場で会うと声をかけてくれる心の優しい方だった

ブルゾンちえみ(芸人)

私にとって、金田さんはすごくすごく大切な家族のような存在でした。バイト時代の私に「腹は減ってないか?ちゃんと食ってるか?」と毎日のように気にかけてくれました。今朝、偶然ですが、金田さんに電話をかけたい気持ちになり、かけたんです。そこで亡くなられたということを知りました。思ってもないことに、驚きと悲しみが押し寄せ涙が止まりませんでした。これからも心の側に、金田さんがいて、応援してくれていると思いながらしっかり生きて行こうと思いました。金田さん、本当に本当にありがとうございます。しっかり生きていきます!!!

西村徳文(オリックス監督)

突然のことで、ビックリしております。金田さんが2回目のロッテの監督をされた時、私が選手会長をさせてもらっていたこともあり、野球のことももちろんですが、その他もたくさんのお話をしていただきました。監督を終えられた後もゴルフや食事などに連れていっていただき、いろいろなことを教えていただきました。私がロッテで監督をさせてもらっていた時も球場に足を運んでくださり、監督という仕事について、心構えなど、本当にたくさんのことを教えていただきました。最近、なかなかお会いすることができていなかったのですが、金田さんは元気というイメージしかありませんので、信じられない思いです。心よりご冥福をお祈りいたします

原辰徳(巨人監督)

本当に突然のことで、ショックという言葉しかありません。野球博士と呼べるような、本当に尊敬できる大先輩であり、私の中で教科書と言えるお方でした。『あぁ、金田さんも人間だったんだ』というかね。そういうこととは縁がないんじゃないかな、と思っていたんですが。心からご冥福をお祈りするとともに、お世話になりましたとお伝えしたいです

この他にも多くのコメントがありました。

ここからは金田正一さんの選手・監督時代の成績や引退後の生活についてまとめてみました。

金田正一プロフィール

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名前:金田正一(かねだまさいち)

愛称:カネやん

生年月日:1933年8月1日

没年月日:2019年10月6日(86歳没)

出身地:愛知県稲沢市

身長:184㎝

体重:73㎏

ポジション:投手

投打:左投げ左打ち

プロ入り:1950年

引退年:1969年

選手歴:国鉄(現:ヤクルト)スワローズ(1950年~1964年)、読売ジャイアンツ(1965年~1969年)

監督歴:ロッテオリオンズ(1973年~1978年、1990年~1991年)

プロ入りまで

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金田正一さんは、名古屋市立大曽根中学校在学中に野球を始め、機械いじりが好きだったことから、名古屋電気学校に入学しますが、1年途中の1948年5月に享栄商業高校へ編入。

この時、14歳だった金田正一さんは従来より1年早い高校入学でした。

高校時代の野球部監督に徹底して走り込みを教えられ、投手としてのスタミナと体づくりを学んだそうで、後年「私の走る野球の原点はここにある」と言い、「野球選手として育ててくれ、足を向けて寝られない存在」と話していました。

高校2年生の時には、エースとして夏の甲子園予選準決勝まで進みますが、相手投手に完全に抑え込まれ完封負け。

コントロールに難があるものの、伸びのあるストレートと鋭い縦のカーブでプロ注目の存在になりました。

その後、1950年に高校3年生になる時点で当時設立させたばかりの国鉄(現:ヤクルト)スワローズの西垣徳雄監督にスカウトされ、甲子園の予選敗退後に高校を中退し、シーズン途中から国鉄に入団しました。

 

国鉄に入団しプロ入り

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国鉄は当時17歳であった金田正一さんを積極的に起用し、初年度は8月デビューながら8勝を挙げています。

金田正一さんも自分が他の選手よりも優遇されていると気づいており、「自分は特待生の中の特待生」だったと明かしています。

1951年にはノーヒットノーラン(18歳35日は現在も最年少記録)を達成し、この年は22勝を挙げる活躍を見せ、以後14年連続20勝を記録しています。

この年には自身初のタイトルである最多奪三振を獲得しています。

その後、最多奪三振は10度獲得し、1956年には沢村栄治賞を受賞しています。(昭和生まれ初)

1957年8月21日の中日戦では完全試合を達成。

ちなみに左投手で完全試合を達成したのは、プロ野球史上金田正一さんだけです。

この年は、この年は自身初の最多勝、最優秀防御率を獲得し、 自身初のベストナインを受賞。さらに2年連続で沢村栄治賞を受賞しています。

長嶋茂雄との対決は?

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1958年4月5日の開幕戦(対巨人戦)で当時ルーキーだった長嶋茂雄さんから4打席連続三振を奪い、プロの先輩の意地を見せています。

これには伏線があり、長嶋茂雄さんがオープン戦で左投手を打ち崩したことで、「開幕戦で金田投手を打ち崩せるかもしれない」との報道がされ、それを聞いた金田正一さんが激怒。

結果、4打席連続三振に抑え込んだものの、試合後に金田正一さんは、「あの小僧(長嶋茂雄さんのこと)、モノになるかもしれない。三振は全部フルスイングだった」と語っています。

一方の長嶋茂雄さんも、「カーブのキレがよく、特にドロップに手が出なかった。さすが金田さんだ。」と述べています。

 

史上最速で200勝投手になる

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金田正一さんは、1964年に24歳の時に、通算200勝を達成。

これは現在もプロ野球史上最速記録です。(もう破れないと思います)

その後、1963年6月30日に通算311勝を達成し、プロ野球歴代1位に。

この年にはシーズン30勝を達成していますが、これ以降30勝を達成した投手はいません。

国鉄時代には、14年連続20勝、通算353勝を挙げ、巨人戦通算65勝(72敗で巨人戦は負け越しています)は歴代1位。

通算353勝の割に巨人戦の勝ちが少ないように思えますが、どのチームから満遍なく勝ち星を挙げており、一番多いのは広島線の83勝。

その後、国鉄を離れ、巨人に移籍します。

 

巨人に移籍し、400勝を達成

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巨人に移籍した金田正一さんですが、巨人時代はわずかに47勝しか挙げておらず、スランプに陥っていました。

ですが、5年間で日本シリーズ第1戦先発に3度(1965年、1967年、1968年)、公式戦の開幕投手にも4度(1965年、1967~69年)も抜擢されています。

1966年に左ひじの故障に悩まされますが、翌年の1967年には16勝を挙げ復活。

1969年10月10日の中日戦で日本球界初の通算400勝を達成。

同年11月30日に記者会見を行い、現役引退を正式に表明しました。

巨人での背番号「34」は球団では4例目となる永久欠番となりました。

引退会見では、長年の酷使で左腕が伸びきらないことを披露。

この場面は野球漫画「巨人の星」にも描かれていますが、引退後に左腕は再びまっすぐ伸びるようになっています。

獲得タイトルは、

  • 最多勝利:3回(1957年、1958年、1963年)
  • 最優秀防御率:3回(1957年、1958年、1965年)
  • 最多奪三振:10回(1951年 ~1953年、1955年、1956年、1958年 ~1960年、1963年、1964年)※当時連盟表彰なし。セントラル・リーグでは、1991年より表彰開始。※現在もプロ野球最多記録。
  • 沢村栄治賞:3回(1956年 – 1958年)※最多タイ記録。3年連続受賞は最長記録。

現役時代の通算成績(20年)は、

944試合登板、400勝(内365完投)298敗、投球回5526.2、通算対戦打者22078打者、与四球1808、奪三振4490、防御率.234

※赤字はプロ野球歴代1位(与四球は最小記録)

 

第一次ロッテ監督時代

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現役引退後は日本テレビ、ニッポン放送などで野球解説者を務め、1972年11月17日ロッテの監督に就任。

就任当初は、金田正一さんが監督をやることに疑問を持つ人もいましたが、1974年にはチームをリーグ優勝・日本一に導ています。

しかし、1975年は成績はいまいちで、自身も心臓発作で一時期休養を余儀なくされています。

1978年には選手との間にわだかまりが障し、一気に求心力を失ってしまいます。

その後も低迷が続き、この年の10月2日にロッテの監督を退任しています。

監督辞任後は、フジテレビ、日本テレビ、ニッポン放送で野球解説者を務めています。

1988年には野球殿堂入りを果たしています。

 

第二次ロッテ監督時代

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金田正一さんは、1989年10月27日にロッテの監督に復帰しますが、チームは低迷。

その後、ロッテは当時の本拠地の川崎球場から千葉マリンスタジアムに本拠地が移転を決めたため、川崎球場時代の最後の監督になりました。

1991年11月5日にロッテの監督を辞任しています。

 

その後は不定期にメディアにも出演

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2012年には「徹子の部屋」に36年ぶりに出演。

2015年6月25日には「アウト×デラックス」に出演し、「自分のことやから言うけど34歳で(現役を)終えてるの。皆40歳近くまでやってるでしょ。それが凄いんです」といきなり自画自賛。

共演者の山里亮太さんから「ダルビッシュととっちが凄いですか?」と聞かれると、金田正一さんは「無礼だよ」と言い、矢部浩之さんが「(金田さんの)現役時代180キロは出ていた」とつかさずフォロー。

金田正一さんは「その頃は測る機械もないじゃない。出たと思えばいい」と歯に衣着せぬキャラクターでタレントしても活動していました。

以前、「サンデーモーニング」(TBS)のスポーツコーナにゲスト出演した際に、張本勲さんが大学野球でのプレーに「喝」を入れると、「少しは褒めてあげなさいよ」とたしなめる場面もあり、「張本さんに喝をいれられる数すくない人物」と話題にもなりました。

 

金田正一さんは数々の伝説と共に日本のプロ野球界を支えてきた大いなる野球人です。ご冥福をお祈りします。

金田正一

プロ野球通算成績(金田正一):http://npb.jp/bis/players/71073801.html