星野仙一の成績や伝説|がんで死去するまでの功績をまとめてみた!

2018年1月4日に亡くなられた星野仙一さん。

選手時代は「燃える男」、監督時代は「闘将(とうしょう)」と呼ばれ、熱血漢として人気を博していました。

そんな星野仙一さんの現役時代、監督時代、その後についてまとめてみました。

星野仙一プロフィール

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名前:星野仙一(ほしのせんいち)

愛称:仙さん、セン

別名:燃える男、闘将

生年月日:1947年1月22日

没年月日:2018年1月4日(70歳没)

出身地:岡山県倉敷市

身長:180㎝

体重:80㎏

学歴:岡山県立倉敷商業高校→明治大学

ポジション:投手

投打:右投げ右打ち

プロ入り:1968年ドラフト1位(中日ドラゴンズ)

引退年:1982年

選手歴:中日ドラゴンズ(1969年~1982年)

監督歴:中日ドラゴンズ(1987年~1991年、1996年~2001年)、阪神タイガース(2002年、2003年)、北京五輪日本代表(2007年、2008年)、東北楽天ゴールデンイーグルス(2011年~2014年)

 

 

プロ入りまで

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星野仙一さんは、高校に進学の際に、当時、地元岡山県で2強と呼ばれていた岡山県立倉敷工業高校に進学を希望していました。

しかし、岡山県立倉敷商業高校の野球部部長から「君の力で、倉商を甲子園に連れていってくれ」と口説かれて倉敷商業高校に進学。

後に、星野仙一さんが入学して以降の倉敷商業は力を付け、志望していた倉敷工業以上の成績を残すようにまで成長。

しかし、甲子園出場は叶わず、高校卒業後は明治大学政治経済学部経済学科に進学しました。

これは高校時代の野球部の監督から、「おれの母校の明大に行け」と命じられて明治大学に進学したからだと言われています。

明治大学からプロ入り

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大学時代は1年生のころからレギュラーで活躍し、東京六大学リーグで通算63試合に登板し23勝24敗、防御率1.91、199奪三振という成績を残しています。

大学時代は島岡吉郎監督の薫陶を受け、卒業後も「オヤジ」「明治大学野球学部島岡学科出身」と慕うなど、その後の人生にも大きな影響を与えています。

明治大学の同級生で、タレントで映画監督のビートたけし(北野武)さんがいますが、星野仙一さんはビートたけしさんを後輩だと思っていたらしく、「たけし」と呼び捨てにしていました。

後年、ビートたけしさんが「星野さん、同級生だよ」と言うと、「ごめん。たけしさん」と呼び方を変えたことがあったそうです。

1968年のドラフト会議で、中日ドラゴンズから1位指名を受け入団しました。

 

中日選手時代

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星野仙一さんは、阪神ファンで、少年時代に阪神タイガースの村山実投手に憧れており、村山投手と同じ背番号「11」を希望しましたが、空いてなかったため、代わりに数字を倍にした「22」が背番号になりました。

プロ3年目には中日のエースナンバー「20」に背番号を変更しています。

巨人・阪神キラーでもあり、対巨人戦は35勝、対阪神戦は36勝を挙げています。

ドラフトの際に巨人との間に指名の約束がありましたが、巨人は高校生のの島野修投手を指名。

星野仙一さんは、「ホシとシマの間違いじゃないか」と思ったそうで、この出来事がきっかけで選手時代から監督時代まで一貫して、「打倒巨人」になったとも言われています。※星野さんが肩を痛めていたことがあったため指名を回避したと、後に巨人側から明かされたそうです)

選手時代は「燃える男」の異名を取り、特に巨人戦では闘争心をむき出しにして投球していました。

1977年は自身最多の18勝を挙げ、1981年には投手コーチを兼任し、1982年の自身にとっての2度目のリーグ優勝を機に現役を引退。

引退後は、野球解説者、野球評論家として活動しています。

主な獲得タイトルは、

  • 最高勝率:1回 (1975年) ※当時連盟表彰なし
  • 最多セーブ投手:1回 (1974年) ※セ・リーグの初代最多セーブ投手
  • 沢村栄治賞(1974年)

現役時代の通算成績(14年間)は、

500登板、146勝121敗、34セーブ、勝率.547、防御率3.60

宇野ヘディング事件とは?

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よく珍プレーとしてテレビでも放送された「宇野ヘディング事件」が起こったのは、1981年8月26日の対巨人戦。

この試合、ショートの宇野勝選手のエラーで失点してしまい、星野仙一さんがホームベースの後方でグラブを叩きつけたことが話題になりました。

これは宇野勝選手のエラーに怒りを露わにしたように思えますが、実は後輩の小松辰雄選手と「どちらが先に巨人を完封するか」と賭けをしていたそうで、失点したことで賭けに負けてしまったことに悔しさを露わにした行動だったと言われています。

 

第一次中日監督時代

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星野仙一さんは、1986年のシーズンオフに途中休養した前任の山内一弘監督の後任として、中日ドラゴンズの監督に就任。

背番号は「77」で、後に監督を務めた阪神タイガース、東北楽天ゴールデンイーグルスでも一貫して「77」を着用しています。

「ユニフォームは戦闘服」というのがモットーで、怠慢なプレーをした選手には鉄拳制裁も辞さない鬼監督で、選手達から非常に恐れられていました。

その為、監督時代は「闘将(とうしょう)」という異名も定着しました。

勝負への厳しさはチーム内外を問わず、相手チームや審判にも向けられ、審判の判定に抗議して退場することもありました。

1987年6月11日の対巨人戦で、、宮下昌己投手(中日)がクロマティ選手(巨人)の背中にデッドボールを当てて、大乱闘騒ぎに発展。

この際に、巨人の王貞治監督につかみかかり、ケンカを売ったと批判されました。

後年に星野仙一さんは、この時のことを、

王さんに「我々が主役になってはダメだ」と諭されたが、「やられたらやり返すのは当たり前じゃないですか」と言い返した。拳を突き出したのは、「(クロマティ選手)が拳で殴ることはないでしょう」との抗議の意味だった

と釈明しています。

しかし、グラウンドの外では選手の家族(特に妻)の誕生日には、花束を贈るなどの気遣いの人でもあったようです。

補強も積極的に行うなど、GM(ゼネラルマネージャー)のような一面も持ち、落合博満選手1人をロッテから獲得する際に4人の選手を放出するなどの大胆なトレードも行っています。

監督1年目の1987年には、5年連続5位だったチームを2位にまで躍進させる手腕を発揮し、翌1988年には中日をセ・リーグ優勝に導きますが、日本シリーズで敗退しています。

その後は低迷し、1991年には監督を辞任しています

第二次中日監督時代

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しかし、星野仙一さんは、1995年オフに監督復帰が伝えられ、1996年から再び中日の監督に就任しています。

闘将ぶりは健在で、審判に抗議する映像がテレビでよく放送されていました。

各局が放送したテレビ番組の「プロ野球珍プレー好プレー」では、星野仙一さんのコーナーまでありましたよね。

1996年は2位という成績でしたが、1997年には最下位転落してしまいました。

しかし、1998年には2位に浮上し、翌1999年にはセ・リーグ優勝を果たしていますが、日本シリーズでは敗退しています。

2000年は2位でしたが、2001年は5位に転落し、この年で中日の監督を辞任しています。

 

阪神監督時代

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中日監督退任後は、NHK解説者の打診がありましたが、2001年オフに長く低迷していた阪神タイガースの監督に就任。

これは阪神の野村克也監督が退任する際に、オーナーに星野仙一さんを推薦したことで実現したと言われています。

星野仙一さんは、野村克也さんとの違いについて、

野村さんは阪神での3年間、「弱者が強者に勝つ野球」というものを標榜されていたそうだが、私の場合は「弱者を強者にする野球」だ。野村さんといえばご存知ID野球。野球は考えるスポーツ、頭でやるスポーツとして捉え、指導していくスタイルの人だが、私が阪神で選んだのは端的にいうと体の野球だ。これはどちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、弱いチームの選手を鍛えて、戦っていくための順番として問題として考えてもらえればいいだろう

と自身の著書で書いています。

2002年は4位に終わりますが、二度の7連勝を記録するなど、手ごたえを掴みました。

翌2003年には主力選手の活躍に加え、若手選手の成長で首位を独走し、阪神タイガースを18年ぶりの優勝に導きました。

その後日本シリーズに進出しますが、またしても敗退を喫しています。

持病の高血圧症の悪化などから、星野仙一さんは2003年オフに阪神の監督を辞任しています。

※2010年に阪神ファンが選ぶ「阪神名監督」というアンケートで圧倒的支持で1位に輝くなど、根強い人気を誇っています。

 

楽天監督時代

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阪神監督退任後は、2004年から阪神のオーナー付シニアディレクター(SD)や、「NEWS ZERO」(日本テレビ系)スペシャルコメンテーター、北京五輪日本代表監督などで活躍。

2010年オフに阪神のシニアディレクターを退任し、2011年からは東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任しました。(自身初のパ・リーグチームでの監督)

しかし、監督初年度の2011年3月11日に発生した東日本大震災で東北地方は甚大な被害を受けました。

星野仙一さんは、「頑張ろう東北」を合言葉に、被災地の訪問を積極的に行いましたが、チームは2011年は5位、2012年は4位とBクラスに終わりましたが、一定の手ごたえを掴み2013年を迎えます。

2013年に楽天は、田中将大投手が24勝0敗と負けないエースとして大活躍するなどし、球団初のパ・リーグ優勝を飾り、日本シリーズでは巨人を相手に4勝3敗と勝利を納め、星野仙一さんも自身初の日本一を経験しました。

66歳でのリーグ優勝と日本一は、プロ野球最年長優勝記録になっています。

しかし、2014年に持病の腰痛が悪化し、この年に監督を辞任しています。

監督時代の通算成績(通算17年)は、

2277試合、1181勝1043敗、53引き分け、勝率.531、Aクラス10回、Bクラス7回

督時代の審判への猛抗議は、演技(ファンや選手の士気を上げるため)だと言われており、選手時代に退場処分を受けたことは一度もないそうです。

異なる3球団(中日、阪神、楽天)でリーグ優勝を経験した監督は、三原脩さん、西本幸雄さんに次ぐ、史上3人目の偉業になっています。

その後は楽天のフロント業で活躍

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2014年11月9日、楽天のシニアアドバイザーに就任し、2015年9月からは、楽天球団副会長に就任(死去まで)。

ドラフト会議にも楽天の席で参加していました。

2017年には、野球殿堂顕彰者(エキスパート表彰)を受賞しています。

2018年1月4日に死去

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星野仙一さんは、2018年1月4日にすい臓がんの為に死去されました。(享年70歳)

本人の意向で、周囲にはすい臓がんであることは公にされおらず、関係者や知人も訃報に動揺を隠せませんでした。

楽天球団、阪神球団がそれぞれお別れの会を催し、楽天は星野仙一さんの背番号「77」を永久欠番にすると発表しました。(監督で永久欠番になるのは史上初)

突然の星野仙一さんの訃報に、多くの関係者から悲しみの声が寄せられました。

王貞治(ソフトバンク会長)

闘志を全面に出した、あの攻撃的な投球は、勝負していてとてもやりがいのある投手でした。昨年、野球殿堂入りのパーティーでお会いしましたがこんなに急に亡くなられるとは、とにかく残念でなりません。謹んでご冥福をお祈りします

長嶋茂雄(巨人軍終身名誉監督)

あまりにも突然の事で本当に残念でなりません。昨年11月に開かれた仙ちゃんの「野球殿堂入りを祝う会」で「これからも野球界のために力を貸して」とメッセージを送ったばかりです。「打倒巨人」を前面に闘志満々でぶつかってきた投手だったからこそ、私も負けずに「さあ仙ちゃん、来い」と心を燃やすことができ、対戦するのが本当に楽しみでした。監督としても多大な実績を残され、さらなるご活躍を期待していました。ご冥福をお祈りします

原辰徳(巨人監督)

本当に驚きました。そしてショックです。現役でも対戦させていただいて、監督としても戦うことができたのは、私の誇りです。星野さんからは、優しさと厳しさというメリハリを勉強させていただきました。最後にお会いしたのは、昨年の野球殿堂入りを祝う会でした。ご逝去されたことがいまだに信じられません。心からご冥福をお祈りします

岩瀬仁紀(元中日選手)

急なことでびっくりしています。12月にお目にかかった時はお元気そうだったので、信じられない気持ちです。星野さんには、野球の面でプロの世界の厳しさを教えていただき、野球人として成長できたので感謝の気持ちしかありません。ご冥福をお祈りいたします

山本浩二(大学時代からのライバル)

突然の訃報に言葉が出ない。あまりにもショックが大きい。昨年11月28日に東京、12月1日に大阪で行われた殿堂入りパーティーの時の姿が元気がなく、顔つきや声にも力がなくなっていたので心配はしていた。大阪のパーティーの後、3日後くらいだったかな。お礼の電話がかかってきたので「気を付けてくれよ」と話したばかりだったのに…。本当に早過ぎる

田淵幸一(大学時代からのライバル)

一番の親友だった。親友が亡くなったショック、悲しさはこんなにすごいものかと初めて体験した。(思い出はと聞かれても)まだそういうのは頭に出てこない」

山本昌(元中日選手)

体調が優れないとは聞いていたが、殿堂入りを祝うパーティーでお会いしていたので、突然のことでびっくりしている。2軍時代からお世話になった最大の恩師。本当に早すぎる。残念でならない

矢野燿大(阪神監督)

ユニホームを着た時の星野さんは本当に厳しくて一番怖い監督でしたが、私たちのことをいつも気にしてくれる一番優しい監督でもあった。感謝の気持ちしかありません

立浪和義(元中日選手)

いまだに信じられない。私のプロ野球人生は、星野さんにドラフトでくじを引いてもらって始まった。殿堂入りパーティーで少ししんどそうに見えたので、ご病気されていなければいいなと思っていた。私が指導者としてユニホームを着ることを楽しみにしておられたので、その姿を見せられなかったのが残念

この他にも、球界関係者や親交のあった芸能関係者からも哀悼のコメントが多く寄せられました。

選手時代よりも監督時代の印象が強い星野仙一さんですが、皆さんは中日、阪神、楽天の中でどの監督時代が印象的でしょうか?

意見が分かれるところですが、筆者は阪神時代の星野仙一さんがけっこう印象に残っています。

ご冥福をお祈りしたいと思います。

星野仙一

星野仙一さん追悼サイト(東北楽天ゴールデンイーグルス)https://www.rakuteneagles.jp/senichi_hoshino/

星野仙一記念館:http://1001-kinenkan.jp/