新庄剛志の現在。バリ島に移住って本当?”記録より記憶に残る”現役時代の戦績を振り返る

元プロ野球選手の新庄剛志さん。

記録よりも記憶に残る選手だったかもしれません。

そんな新庄剛志さんの現在についてまとめてみました。

プロ入り前の新庄剛志

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新庄剛志さんは、1972年1月28日に長崎県下県郡美津島町(現:対馬市)で生まれました。

長崎県は母親の実家で、育ったのは福岡県福岡市で、小学校3年生でソフトボールを始めました。

小学校6年生の時に、町内対抗大会でサヨナラ負けを喫しますが、新庄剛志さんは悔しがり、審判にまで喰ってかかったそうです。

それを見かねた監督が、野球チームを結成し、新庄剛志さんは2日間でメンバーを集め、自身はエースで4番を務めます。

後年、同チームは福岡県大会(全64チーム中)で3位に入賞する快挙を達成しました。

中学校では軟式野球部に所属し、全国大会にも出場しています。

高校は一般入学

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高校は父親の薦めもあり西日本短期大学附属高校へ一般生として入学。

硬式野球部に所属し、寮生活を送っています。

3年生の時に、全国高等学校野球選手権福岡大会の4回戦で、練習試合を含む高校時代初のサヨナラ安打を記録。

決勝まで進み、新庄剛志さんは生涯初のサイクル安打を達成するも惜しくも敗退。

甲子園出場は叶いませんでした。

阪神タイガースから指名され、プロ野球選手になる

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新庄剛志さんは、1989年のプロ野球ドラフト会議で、阪神タイガースから5位で指名を受けました。

当時のプロ野球のスカウトの間で、高校生選手の肩に「特選A」をつけたのは、新庄剛志さんのみでした。

指名順位の低さを憂いて入団するかどうか迷いますが、阪神に入団を決め、契約金3700万円、年俸360万円(推定)で、背番号は「63」になりました。

外野手から内野手に転向する

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1年目の1990年は、腰痛の影響もあり、2軍での生活を余儀なくされました。

このシーズン中に新庄剛志さんは、自ら志願して内野手に転向しました。

2年目も秋まで2軍で過ごしますが、9月に1軍昇格を果たし、初打席、初安打、初打点を記録しています。

虎のプリンスと亀新フィーバー

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1992年の新庄剛志さんは、開幕こそ2軍スタートでしたが、すぐに1軍に昇格。

「虎のプリンス」の愛称で親しまれました。

この年、阪神タイガースは最後まで優勝争いを演じますが、残念ながら2位に終わっています。

新庄剛志さんと、チームメイトの亀山努さんが活躍したことから、「亀新フィーバー」と呼ばれ、人気に火が付きました。

当時の新庄剛志さんへのファンレターは1日段ボール1個分と、人気の高さを物語っていました。

記録より記憶に残る選手だった

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その後も、阪神タイガースの主力選手として活躍した新庄剛志さん。

ポジションも再び外野手に戻りました。

しかし、1995年の引退騒動(オフに現役引退宣言をするも後に撤回)、1997年には応援ボイコット騒動(オールスター戦に出場した新庄剛志さんですが、セ・リーグファンが応援をボイコットした)と何かとグラウンド内外問わず、話題になることが多かったです。

1999年6月12日の巨人戦では、敬遠球をサヨナラ安打にするという前代未聞の記録も打ち立てています。

2001年からはメジャーリーグに移籍

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新庄剛志さんは2000年オフに、FA権を行使し米:メジャーリーグのニューヨーク・メッツに移籍しました。

メッツでは、外野のすべてのポジションを経験。

しかし、ケガの影響もあり思うような活躍が出来ませんでしたが、捕殺数12(当時の球団新人外野手最多)、満塁時の打率.583、打点17を記録し、勝利打点11(チーム最多)と肩の強さと勝負強さは健在でした。

トレードでジャイアンツへ、後にメッツに復帰

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新庄剛志さんは2001年オフにトレードで、サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍し、2002年からは同チームでプレイしました。

しかし、またしてもケガの影響もあり思うような活躍が出来ませんでしたが、チームはこの年ワールドシリーズに進出し、新庄剛志さんは日本人選手初のワールドシリーズ進出(当時)を果たしています。

オフにジャイアンツは新庄剛志さんと契約を結ばず、2003年には再びメッツに移籍しました。

オープン戦では絶好調だったものの出場試合は減少し、マイナー落ちを余儀なくされ、2003年にメッツを退団しました。

日本ハムファイターズに入団し、日本球界復帰

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新庄剛志さんは、最初にオファーがあった球団に行くと明言していました。

それが北海道に移転してばかりの日本ハムファイターズでした。

2004年の入団会見で新庄剛志さんは、会見では「札幌ドームを満員にする」、「チームを日本一にする」と目標を掲げ、登録名を「SHINJO」、背番号は「1」に決まりました。

オールスター戦でホームスチールに成功

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2004年のオールスター戦に出場が決定した新庄剛志さんは、「MVPは僕のものです」と宣言。

7月11日に開催されたオールスター第2戦の3回裏二死三塁の場面で、三塁ランナーだった新庄剛志さんは、捕手が投手に返球した瞬間にスタートを切り、ホームにヘッドスライディング。

投手からすぐさま送球されクロスプレーになりますが、判定はセーフ。

オールスター戦史上初の単独ホームスチールを記録しました。

この時、新庄剛志さんは腹ばいのまま、両手両足で地面を叩き続けて喜びをあらわにしています。

その他、二塁打2本を放ち、宣言通りオールスター戦でMVPを獲得した新庄剛志さんはインタビューで、「これからはパ・リーグです」と話しました。

日本一になり、現役引退

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2006年に新庄剛志さんは、現役引退を表明。

チームはそんな新庄剛志さんに引っ張られるようにリーグ優勝、日本シリーズに進出しました。

同シリーズで日本ハムファイターズは、4勝1敗で44年ぶり2度目の日本一に輝きました。

この時、新庄剛志さんは涙を流し、まともに歩くことができなかったそうです。

新庄剛志さんは、札幌ドーム満員と「チームの日本一」を共に達成して、現役を引退しました。

引退後はタレントに転身

新庄剛志さんは、現役引退後はタレントに転身し、2011年から2016年ごろまでは、モトクロス競技の練習にも取り組んでいました。

会社を設立

2008年1月28日、新庄剛志さんは、株式会社レハサフを設立して取締役に就任しました。

業務内容はアスリート・アーティスト等のマネジメントや、コスメティック・アパレルグッズの企画・販売などを手掛けていました。

2013年に閉鎖しますが、以降は個人の公式サイトとして存続しています。

これからの新庄剛志は?

新庄剛志さんは、2010年ころからインドネシア・バリ島に移住し、メディア露出がなくなりました。

モトクロスの練習もバリ島に拠点を置き、現地では日本で始めた絵画制作に加え、子供達への簡単な野球指導も行っているそうです。

日本では記憶に残る野球選手だった新庄剛志さんですが、これからは他の分野での活躍を期待しましょう。

新庄剛志

新庄剛志オフィシャルブログ:https://ameblo.jp/tsu-shinjo/

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