栗原恵の生い立ちや代表デビューまでの道
栗原恵さんは 1984年7月31日に広島県江田島市(瀬戸内海の島)で生まれました。
家族は両親と兄がひとりの4人家族で、父親が地元のママさんバレー「鹿川フラワーズ」の監督をしていた(母親は選手)事もあり、小学4年生からバレーボールを始めました。
中学1年時にはすでに身長が176cmを超えて知られる様になり、兵庫のバレー強豪校・大津中学校から誘いを受けた事がきっかけで2年の時から単身バレー留学をしました。
同級生の親と同じアパートに住み食事面のサポートは受けていたようですが、その他は一人暮らしと変わらず練習漬けの日々を送っていたそうです。
ホームシックの自覚は無かったそうですが、家族が泊まりに来て帰りを見送った後などは部屋で泣いたりしていたと語っていました。
高校は強豪校として知られる山口県防府市にある三田尻女子高校(現・誠英高校)に進学し、引き続き親元を離れての生活になりました。
高校1年生の時に“インターハイ・国体・春高バレー優勝”の高校3冠を達成しました。
この頃から「プリンセス・メグ」の愛称でメディアに注目され始めましたが、栗原さん本人は複雑な心境だったと後に語っていました。
代表デビューと実業団入り
出典:naver.jp
2001年(高校2年)の時に全日本代表初選出され、翌年は日米対抗に出場し代表デビューを果たし、周囲の期待通りの活躍をして注目を集めました。
中学~高校のバレーボールの練習が厳し過ぎ、上手く感情を出せていない事がチームの士気を悪くしていると指摘され、なんと「笑う」練習をされられたそうです。
確かに自分や仲間が得点を決めても喜んでいない選手が居ると妙な感じになりますよね。
メグ・カナコンビでブレイク
出典:sanspo.com
栗原さんは2003年に高校を卒業し、日本電気の実業団チーム「NECレッドロケッツ」に入団。
戦いの舞台をVリーグ(プレミアリーグ)に移し、入団直後の5月の「黒鷲旗大会」で若鷲賞(新人賞)を獲得して評判通りの能力の高さを証明しました。
同年11月の「ワールドカップ」では大山加奈(東レ・アローズ)と次世代を担う19歳“メグ・カナ”の愛称で親しまれ、可愛らしい表情と実力から人気になりました。
2004年のアテネオリンピックでも”メグカナ”コンビはレギュラーとして活躍し、日本チームが5位入賞した原動力になりました。
大山さんは持病の腰痛などの怪我が相次ぎ休養と復帰を繰り返す事となり、いつの間にかメディア的”メグカナ”は消滅してしまいました。
大山さんは2010年に引退しましたが、現在も同級生やバレーボールの戦友として交流があり、プライベートでの”メグカナ”は今も続いているようでした。
全盛期と怪我の日々
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2004年10月に「NECのバレースタイルと、自分のスタイルが合わない」との理由から”NECレッドロケッツ”を退団し、翌月2004年同じVリーグの“パイオニアレッドウィングス”に入団。
Vリーグの規約「シーズン開幕後に移籍した選手はリーグ戦の参加を認めない」に抵触した為、翌年春まで大会に出場する事は出来ませんでしたが、翌年5月の「黒鷲旗大会」で公式戦に復帰してチーム優勝に貢献して健在ぶりを証明しました。
当時パイオニアの監督だったアリー・セリンジャーと折り合いが悪く、大会が終わってから一時的にチームから離脱するなどしましたが、Vリーグ2005~06シーズンは開幕戦から出場してパイオニアの優勝(2季ぶり)に大きく貢献し、最高殊勲選手・サーブ賞などを獲得しました。
度重なる怪我との闘い
2006年に2年ぶりに全日本代表に選出されましたが、合宿中の練習で左足有痛性分裂種子骨障害と診断され、約半年間のリハビリ生活に突入しました。
病名だけだと怪我の部位がわかりにくいので、分かりやすい画像を用意しました。
出典:札幌スポーツクリニック
痛みがあると左足でジャンプが出来なくなるので、バレー選手としては大怪我ですよね。
2007年全日本に復帰してワールドグランプリでは全9試合にフル出場、同年9月のアジア選手権でも大活躍をして5年ぶりに中国を破り24年ぶりの選手権制覇に貢献しました。
北京オリンピックのメンバーに選ばれ、エースとして活躍し5位入賞の原動力になりました。
2009年・11月に左膝半月板断裂
2010年・3月中旬に半月板の手術を決断し、半年に及ぶリハビリ
2011年・2月下旬に左膝軟骨損傷を手術
栗原さんは左足に爆弾を抱えながら競技を続けますが、周囲の期待の大きさから長期の休養もとれず、怪我を騙しながらの日々は選手生命に影を落としました。
現在も栗原恵は現役でプレーしている
出典:デイリースポーツ
2011年6月に治療に専念するためパイオニアを退団し、9月3日にロシアの「ディナモ・カザン」に電撃移籍して関係者に衝撃が走りました。
2012年3月に「ディナモ・カザン」を退団してワールドグランプリの代表メンバーに復帰しましたが、怪我の様子や経過からロンドンオリンピックの代表からは漏れてしまいました。
2013年7月・岡山シーガルズへの移籍
2014年6月・岡山シーガルズを退団し、9月に日立リヴァーレへ移籍
2018年2月・日立リヴァーレを退団し、6月にJTマーヴェラスに移籍
引退を撤回した理由は吉原知子監督
出典:文春オンライン
2018年2月28日に「日立リヴァーレ」を退団した栗原さんは現役引退を考え、当時の心境は「8割引退」で固まっていたそうでした。
日立を退団後はバレーから離れて自由な日々を過ごし、練習漬けでなく普通の女性としての生活が刺激に満ちあふれていると振り返っていました。
そんな中、JTマーヴェラスの吉原知子監督から突然オファーの連絡がありました。
若い時代をずっと一緒に過ごして、18歳という何も分からない状態で代表に入った時、トップでやっていた方に10年以上経った今”また一緒にやろうよ”と声をかけてもらうのは特別です。
吉原監督以外の方に声を掛けて頂いても、心は揺れなかっただろうなと思います。
そのくらい、監督の存在は大きかったです。
引用元:THE-ANS.jp
栗原さんは今年34歳でプロスポーツ選手としては晩年に突入しています。
尊敬する吉原知子監督の下で一体どのような活躍をするのか、怪我を乗り越えて再び輝く栗原さんの笑顔を見たいと思いました。