ジミー大西の吉本に入ったきっかけが凄い!
ダウンタウンなど超大物の吉本芸人と同期であるジミー大西。
そんなジミー大西は、高校時代から吉本興業に入るつもりはありませんでした。
中学校は野球で注目を浴び、野球の強い大商大堺高校に進みました。
しかし、監督やコーチのサインが覚えられないという欠陥が災いを呼び、チームではベンチ入りどころかマネージャーにさせられてしまいました。
そんなこともあり、同級生にはいじめられ、スポーツばかりしてきたこともあり学業は芳しくありませんでした。
就職をしようとも成績が悪すぎて就職先がみつかりません。
そこで担任の教師が吉本興業に頼み込み、バイトとして正式に採用が決定しました。
吉本に入ってからはなんば花月の進行などを務めたりしていましたが、その後、ぼんちおさむという漫才師に弟子入りすることになります。
間寛平とキャラが似ていますが、ジミー大西は吉本に入ったころ、間寛平に憧れていたそうです。
芸人から画家に
さんまにその才能を買われて、テレビに出ては多くの人たちを笑わせていたジミー大西ですが、テレビ番組をきっかけに画家としての才能を見出します。
ジミーはこれまで学業で常に悪い成績を収め続けてきましたが、笑いのセンスを認められて一生懸命芸人として活動してきました。
そしてそのタイミングで画力を認められて本人ももともと興味のある分野だったために、画家として生きていくことを意識し始めます。
数々の番組でアート作品を作るようになり、ついに1996年。
芸人を辞めて画家になることを決意しました。
当時、ビートたけしや松本人志などの大御所ですら「ジミー大西ほどの逸材が芸人を辞めるのはもったいない」と口を揃えていたほど、芸人引退が惜しまれていましたが、実は引退しながらも籍は吉本興業に残したまま。
それでも数年はテレビでの出演はしなくなりました。
ちなみに、ジミー大西は、画家に転向した翌年、マネージャーと結婚しました。
画伯・ジミー大西の画家としての活動
1996年に芸能界を引退してからは、とにかく絵を描き続けました。
活動は日本だけにとどまらず、海外にも。
画家に転向して3年後にはブラジルのパラ州という自治州から文化功労章を贈られるなど着実に足跡を残していきます。
2002年にはついに個展を開きました。(東京、京都で開催)
画家としても名声を上げ始めて、ボージョレ・ヌーボーのラベルのデザインなどを含む、商品のデザインなども手掛けるようになります。
2005年には個展を全国で開催するまでに・・・
とにかく画家としても大成功しています。
確かにもともと持っていた知名度は大きく関係したかもしれませんが、海外でも認められるということはかなり高いセンスはあったかと思います。
2010年前後には三越で個展を開いたり、グッチ新宿店で個展を開いたりするほど、画家としても大物になりました。
ちなみに、ダウンタウンDXでジミー大西の絵が鑑定に出されて100万円の値を付けたことがあるほど、ジミーの絵は価値が高いものになっているそうですよ。
現在のジミー大西は画家を辞めた!?
なんと、現在はジミー大西は画家を辞めて芸能活動を再開すると宣言しているそうです。
実は、前述のとおり、画家になりながらも吉本興業に籍は残してありました。
そこで、年末に放送されて恒例となった「笑ってはいけない」シリーズには毎年のように出演していましたが、芸能活動での収益も多少なりともあったそうです。
好きな絵画の活動と、たまに行う芸能活動で調子がいいかと思いきや、なぜ画家を辞めようと決意したかというとお金の問題。。。
ジミーはある日、「アルバイト募集!時給850円」のバイト募集の張り紙を目にしました。
「俺が絵を描いていて、時給に換算するとどのくらいだろう」と思い、計算したところ・・・
350円
だったそうです。野球のサインを覚えられないほどの学力で、確かな時給換算ができたのかどうかは謎ですが、自分の仕事を時給換算する時点で儲かっていない証拠ですね。。
自分の絵は高い鑑定額が出ても、買い手は常にいるとは限らず、企業に売ったところで安くさせられるわけですね。
そんなこんなで、画家は儲からないと気付き、芸人に再度転向する形になったジミー大西。
なんと、筆をバキっと折りまくったらしく、かなり決意は固いようです。(筆を折ったというより曲げた と本人は表現しています)
ジミーの絵が世界で評価されるのも面白そうでしたが、今後、確実にジミー大西をテレビで観ることが多くなりますね。出るだけで雰囲気を変えれる面白い芸人さんなので、今後も期待しています!