2018年 仙谷由人元衆議院議員死去
民主党政権で菅内閣の官房長官を務めた仙谷由人元衆議院議員が、今月11日、肺がんで亡くなりました。72歳でした。
仙谷氏は、徳島県出身で、弁護士を経て平成2年の衆議院選挙に当時の社会党から立候補して初当選し、衆議院議員を6期務めました。
この間、当時の民主党で政策調査会長などを務め、平成21年の政権交代で発足した鳩山内閣では、行政刷新担当大臣に就任し、「事業仕分け」などに取り組みました。
その後、菅内閣で官房長官を務めましたが、沖縄県の尖閣諸島沖の漁船衝突事件での対応をめぐり、参議院で問責決議が可決されて、内閣改造に伴って退任しました。
東日本大震災の発生後は、官房副長官に起用され、被災者支援に尽力したほか、その後、党の政策調査会長代行に就任して、東京電力の経営改革などに取り組みました。
仙谷氏は、みずからの経験も踏まえ、がん対策にも熱心に取り組んできましたが、肺がんのため、今月11日に亡くなったということです。
引用元:仙谷由人元衆院議員 死去 民主党政権で官房長官務める
以下は、仙谷由人元衆議院議員のこれまでの功績などをまとめています。
社民党から民主党へ!それでもブレない仙谷由人の政治理念
徳島県で生まれ育った仙谷由人は、東京大学の法学部に進学するも退学しています。
というのも、在学中に司法試験に合格。大学を卒業する必要はないと感じて、そのまま弁護士になりました。
44歳になるころには日本社会党、つまり現在の社会民主党から衆議院議員に立候補し初当選します。
日本社会党には数年在籍していましたが、社民党へ名称を変更するころ、政治理念と党の考え方が違うことから離党。
その後は四国市民ネットワークという組織を立ち上げます。
1996年に旧民主党に入党して再選を果たします。
その後は民主党一筋で政治生命を終えるまで民主党の顔として活躍します。
民主党が政権を取り、仙谷由人の位置づけも変化
旧民主党に入党して初めて当選した年、党の政策調査会長に就任しました。
言わずと知れた重要なポストなのですが、その翌年には幹事長代理というポストになります。
このころから仙谷由人の評価は党内では高く、民主党となってから2004年には党の代表に岡田克也が就任すると再び党政調会長に就任。
2005年に民主党が設立した公共政策プラットフォームという組織では初代代表理事に就任しました。
ここまで重要なポストを任され続けている仙谷由人ですが、民主党が政権を取ってからも次々に重い役職につきます。
【民主党政権時代の仙谷由人のポジション】
・鳩山政権
→内閣府特命担当大臣、国務大臣、国家戦略担当
・菅政権
→内閣官房長官、法務大臣、民主党代表代行
・野田政権
→内閣官房副長官、民主党政策調査会長代行、民主党副代表
仙谷由人は、キャリアと年齢、知名度、人気、すべてを加味してもいつ総理大臣になってもおかしくないくらいの実力は持っていました。
2012年、徳島1区でまさかの落選
2012年、内閣改造に伴う党人事により民主党の副代表に就任しました。
党の副代表として臨んだ第46回衆議院議員選挙。
当時、東日本大震災や改革で失敗していた民主党は、自民党に大敗を期してしまい、仙谷由人も自民党新人の福山守に敗北してしまいました。
民主党への失望感と、自民党への期待感、さらには仙谷由人が原発推進派ということから支持者を減らしてしまったことが原因と言われています。
徳島1区で民主・仙谷由一氏が敗北 その敗戦の弁(12/12/16)
その敗北の後、参議院議員選挙もありましたが、仙谷由人は出馬しませんでした。
そして、2014年に次期総選挙にはもう出馬しないという意向を公表しました。
気がわからない限り、これにて政治生命は終了。
総理大臣になってもおかしくないくらいの人材は、60代にして政界を引退してしまいました。
現在の仙谷由人は?
現在は政界を引退したという形ですが、民進党の党員として活躍しています。
大学やセミナーなどの講師をしたり、テレビ出演をしながらコメンテーターとしての活躍も目立ちますね。
官房長官、党副代表などを務めた元エリート政治家の講演なんて、すごい人気になりそうですね。
また、民進党を活性化させるための働きも行っており、選挙などでは応援をしているようです。
原発に関しては原発事故直後と現在では少し意見が変わっているみたいで、
「原発40年運転制限制を厳格に適用」
「原子力規制委員会の安全確認を得たもののみ、再稼動」
「原発の新設・増設は行わない」
と、慎重な姿勢をとっています。
生前は徳島県を盛り上げるための活動も積極的に行っていたようです。
2018年10月11日、肺がんで亡くなりました。72歳でした。
仙谷由人さん、お悔やみ申し上げます。
出典元:Wikipedia