田中 耕一(たなか こういち)さんのプロフィール
田中 耕一(たなか こういち、1959年(昭和34年)8月3日 – )は、日本の化学者、エンジニア。東北大学名誉博士。ソフトレーザーによる質量分析技術の開発で文化功労者、文化勲章、学士で唯一のノーベル化学賞受賞者。民間企業で働いていた際にノーベル賞受賞して以降も、血液一滴で病気の早期発見ができる技術の実用化に向けて活躍中である。
株式会社島津製作所シニアフェロー、田中耕一記念質量分析研究所所長、田中最先端研究所所長。東京大学医科学研究所客員教授などにも就任している。日本学士院会員。
引用元:Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/
田中耕一氏の学歴と島津製作所に入社するまで
2019年現在で60歳になる田中耕一は、1959年に富山県で生まれ育ちました。
あまり知られていませんが、生まれてすぐに母親が逝去してしまったため、叔父の家に養子として入り育てられます。
富山県でも最も優秀と言われる富山中部高校に入学。偏差値は70ほどなくては入れない県内トップの進学校です。
富山中部高校と言えば、東大や京大、一橋などの合格者を出していて、県知事や衆議院議員なども多く輩出しています。
そんなレベルの高い高校から田中が進学した大学は東北大学。
東北大学に入学が決まった田中耕一ですが、入学時に自分の両親が本当の両親でないことを知ります。よくドラマであるような展開に、純粋な少年はショックのあまり大学を1年留学するほど落ち込んでしまいました。
それでも、工学部での勉学に没頭し、電磁波やアンテナ工学を学んで、ソニーの入社試験には落ちてしまったものの、京都の島津製作所に入社することになります。
養子ということが原因かどうかわかりませんが、社会で活躍する意志は強く、大学院の選択肢はなかったようです。
ノーベル化学賞を受賞するまでの島津製作所での研究
あまりに難しいため簡単に説明すると、たんぱく質をイオンの状態にあする方法を研究していました。
たんぱく質は遺伝子の情報によって細胞の中で作られます。
細胞内で物質を運んだり、分解したり、いろいろな役割を果たすたんぱく質ですが、その数は10万種類以上あるそうです。
たんぱく質は細胞レベルで言えば、とても大きい分子で、イオン化することによって分子を保護し、いろいろなことに用いることができるということは分かっていましたが、肝心の分子化にすることが重要で、田中耕一氏とその研究グループはその研究をしていたのです。
ある日のこと。
別の実験で使うつもりだったグリセリンとコバルトの粉末を混ぜてしまうという失敗を犯しました。
そういうミスの場合は、その試料は破棄するのが通常ですが、田中耕一氏は「せっかくだから分析してみるか・・・」と溶液を見てみると・・・
なんとそれまでずっと求めていた研究の結果が得られてしまったのです。
こうして大きな分子をイオン化することに繋がり田中耕一氏の研究は大きく前に進み始めます。
2002年ノーベル化学賞の受賞
出典元:こちら
ノーベル賞を受賞する15年ほど前。
1987年、田中耕一氏は前述の研究内容をもっとわかりやすく、そして裏付けや度重なる研究を続けて論文にして学会で発表します。
たんぱく質をイオン化するその方法は「ソフトレーザー脱離法」と名付けられ、世界に公開。
その研究結果を利用した質量分析機器が、アメリカに納入されるなど、早速評価を得ます。
しかし、現在で言えば、他の研究が進み重要な発見・発明ではありましたが、当時は今ほどほかの研究は進んでいなかったため需要が少なめでした。
それから数年後、ドイツの研究者たちが同じ研究をして、再び発表すると一気に市場と需要は広がり始めます。
そうして、2002年のノーベル化学賞でその研究が認められますが、田中耕一氏が先駆的に研究・発明していたので田中耕一氏にノーベル化学賞が与えられたというわけです。
当時は日本のメディアは日本で12人目の受賞者となる田中氏をフォーカスしましたが、本人は「芸能人でもないし博士でもないから」という理由であまりテレビには出ませんでした。
その人柄がまた好感を持てますよね。
田中耕一氏の現在の活動
2002年、ノーベル賞を受賞しましたが、当時の医療技術ではあまり役に立つものではありませんでした。
2009年ごろから田中耕一氏の研究が活用されるようになり、再び医学界の中で脚光を浴び始めます。
2011年には「病気の早期診断や抗体を用いた薬の開発に結び付く技術」として、英文ジャーナルの電子版に発表するなど、まだまだ研究を続けています。
そして、2014年からアルツハイマーの原因物質を検出するための研究を行っていて、かなり実用化に近い段階まで来ているそうです。
また、現在は東京大学医科学研究所で教授を務め、自身の田中耕一記念質量分析研究所の所長や、田中最先端研究所の所長なども兼任。
責は株式会社島津製作所シニアフェローに置いていて、未だに大忙し。
2019年現在で60歳になりますが、今後も日本の医学を大きく変えるエンジニア・博士として、まだまだ活躍してくれることを期待します。