『ソルトシェイカー』水戸泉
豪快な塩撒きで有名な水戸泉ですが、本名は『小泉 政人(こいずみ まさと)』という名前でした。
幼い頃に父親を亡くしており、母親に女手一つで育てられており、母親の勧めもあり柔道を始めています。
1977年に貴ノ花のサイン会と勘違いし、高見山と富士櫻のサイン会に行ったのをきっかけに高見山に勧誘されています。
後に、高砂親方からも勧誘を受けており、29cmの入手困難の靴を貰ったことにより入門を決めています。
入門してからは、学生横綱を2度獲得した朝潮との稽古をしており、中学生には厳しい稽古であったが、後に自分の財産となっています。
1984年に新入幕を果たしていますが、翌年1985年に交通事故を起こし負傷しています。
この負傷により、2場所連続負け越ししてしまい十両に陥落しています。
この事故をきっかけに、今でも十両以上の力士の自動車運転を禁止にされています。
1986年には、関脇となっているが大乃国戦で左膝そく側副靭帯を断裂しており、3場所連続の休場になり十両に陥落している。
この負傷により、医師からは相撲を諦めるように言われ引退を考えているが、親孝行したいのとリハビリで一緒になった自分よりも若い重度障害を負った人たちに励まされ再び土俵に上がることを決意しています。
1988年に再入幕し、大きな飛躍を期待されていましたが、再び大乃国戦で左足首を負傷しています。
十両に落ちることはなかったが、二度の負傷に苦しみながらも関脇になり活躍していました。
1992年の7月場所には、西前頭筆頭であった水戸泉は、初日から白星を積み重ねていき自身初の7連勝をしていました。
貴花田と霧島に敗れ2敗しているが、優勝争いの首位を走っていき平幕優勝者となっています。
1992年9月場所は、勝ち越し優勝がまぐれでないことを証明しており、これからの成績次第で大関昇格もあったが、左足を負傷してしまい、平幕に下がっています。
1993年には、四股名を改名し水戸眞幸になっている。
しかし、膝の故障が多く三役に復帰することはできなかった。
ちなみに、高砂が命名したもので『枯れることなき泉のごとく出世を』という願いと出身地の水戸、自身の本名である小泉からとって命名されています。
大相撲引退
38歳まで現役として活動していたが、2000年の9月場所を最後に引退しています。
引退してからは、錦戸を襲名しており審判委員を長く務めていましたが、自身の婚約破棄の問題もあり審判委員を辞退しています。
2002年に高砂部屋の分家とし、錦戸部屋を創設しています。
2014年には、協会役員以外の親方たちで構成している年寄会の会長に就任しており、総会の在り方を見直すという意向を示していました。
元関脇・水戸泉の現在
2016年に22歳年下のソプラノ歌手の『小野 友葵子(おの ゆきこ)』さんと結婚しています。
しかし、末期の腎不全に侵されており長時間の人口透析を行っており稽古にあまり出れていないようです。
他にも奥さんに夢中になり過ぎて、稽古に顔を出していないとも言われています。
ちゃんこも共にすることも少なくなっているみたいで、若い弟子は不満が積り次々と辞めているようです。
今では、弟子が3人しかおらず収入源となっている相撲協会からの支給金も減少してしまっているようで毎月赤字という厳しい状況に陥っています。
奥さんも豪遊生活を送っていると報道され、バッシングを受けていましたが弟子たちを食事に誘い悩みを聞いたりと女将行をこなしている場面も紹介されています。
現役時代は、怪我に悩まされ今では、部屋の経営に悩まされ苦労の多い水戸泉ですが、錦戸部屋も赤字状態ということなので潰れてしまうのも時間の問題でしょうか。。